柳宗悦と富山の「土徳」について

【水と匠】柳宗悦と「土徳」について書きました。

https://mizutotakumi.jp/stories/411/

「柳宗悦を引き寄せた土徳(どとく)の地 いまに続く信仰と城端別院善徳寺」

民藝で知られる柳は、今回きちんと著作を読むまで知らなかったのですが、宗教哲学者でもありました。

宗教というとあまり良いイメージが描かれにくいのが昨今の一般的認識だと思います。

わたしは、文化人類学的視点で宗教について知るのは大好きで、一時期メキシコの神話とか読みまくっていたんですが、それでもやっぱり、スピリチュアルワードというか、宗教的表現を文章のなかにみつけると、警戒します。そして冷めてしまう。

仏教には警戒心はない、お寺の空間は好きだし、仏像をみるのも好きだけれど、「信仰の対象」となると、やっぱり、ううん?と、わからないなあとなります。初詣に行ったり、鳥居の前では礼をしたり、安産祈願に行ったり、お宮参りしたり、お正月の準備をしたり、注連縄を飾ったり・・・そういうのも宗教的行為ではあるから、宗教心がまったくないわけではないのだけど、信仰というものをしたこともないので、信仰のある状態というのがわからないわけです。委ねる、ということに抵抗を感じる。

物心つくころには宗教を名乗る団体が大規模なテロ行為を起こす事件があり、どうみても幸せになれなそうな恐ろしいイラストの描いてあるパンフレットを持って家に訪問に来る宗教の人たちがいて、親が宗教にはまっていたために家庭がおかしくなったという体験談もよくあったりして、そうなると、信仰って怖いものだなというイメージのほうが勝ってしまう。

でも、ほんとうの宗教ってそうではないのかも、信仰って怖くないのかもと思ったのは、富山に来てからでした。

これはいつかまた、じっくり書きたいのだけど、道で、毎日朝晩仏様の祠にお花をそなえてるのっていうめちゃくちゃかわいいおばあさまとお話しすることがありました。その人は人の良さがたたずまいからあふれていて、ええほんといい人だなあって思うエピソードもあったりして、あれ、信仰ってこういうことなのかも?と思ったのです。ただ感謝して、お花をそなえることを欠かさない、それだけのことなのかもって。

そして、それだけのこと、とは言うけれど、それを毎日続けるのは大変なことで、それは本当に心からの何かがなければ続けられない。その人を動かしているのが信仰心というもので、それは存在全体に対しての感謝みたいなものなのではないか。そういう心持ちでいたら、負の感情にとらわれることはないというか、その「感謝」という状態と、悩みや妬みや苦しみって同居しないというか、感謝しているって、負の感情から解かれてる状態なのかもと思い、浄土真宗ってそういうことなのかもというようなことを、思ったのでした。

そのとき感じたことと、これまで伝統工芸の世界にいて感じてきたことをベースに、取材で得たことを加えて、今回の記事は書いています。

柳がそういうことを言っていたのか、という部分には今回改めて著作を読んでの発見がものすごくありました。

少し長い記事ですが、ぜひ読んでみてください。

https://mizutotakumi.jp/stories/411/