9月2日(月)
子どもに話が通じるようになってきたので、伝え方に頭を使うようになってきた。
たとえば、歩いていて葉っぱに触ったり、抜こうとしたりしたとき、雑草はOKで、花壇や人の家の植え込みはダメな理由を、わかりやすく言葉にすること。
花壇や人の家の植え込みは、そこにそういうふうにあるように、人が植えたものだから、もしくは人のものだから、勝手にとったり動かしたりするのはだめ。
じゃあなんで雑草はいいのか。雑草は誰のもの?ほんとうにいいの?と思うと、ちょっと不安になる。
でも雑草には誰かに(人でも猫でも虫でも)触られて、動かされて、そうしてタネを運んだり交配したりという戦略があるはずだから、摘んでもいいはず、と思う。
じゃあ人の敷地内の雑草は?駐車場の雑草は?雑草もその場所の所有者のものでは。
これはその場所がどの程度オープンかによると思う。ほぼ道みたいに誰でも通れるようになっているか、プライベートな空間であるか、というような。ある程度感覚的に判断するところかとも思う。その雑草に触っても、摘んでも、問題が起きないかどうか。
山にいったりすると、植物に触ってはいけないことが多い。これと街はどう違うのか。
たぶん、人ができるだけその環境に影響を及ぼさないように振舞うべき場所と、人がいることが前提で草花も生きている場所、という違うだと思うのだが、このあたりちゃんと調べたほうが良いかもしれない。
9月3日(火)
夫が週末まで帰りが遅いので、外にご飯を食べに行きたいのだが、家に帰るとさっそく娘は何か食べたがって、おやつは補食だからお菓子じゃなくてパンを食べようなどやっていると、もっと食べたがるので、トマトをあげて、と結局普通に家で食べる夕飯になる。
9月4日(水)
柴崎友香「待ち遠しい」。主人公は結婚していない子どももいない美大出身の39歳の女性。夫に先立たれた60代の大家さんと、ヤン気のあるその25歳の姪っ子との近所づきあいを通じての、年代も境遇も属しているコミュニティ(というようなもの)も違う人と人の関わりを描いた話。
その関わりを描いただけ、ということができるのが柴崎友香のすごいところで、何がどうなるとかじゃなくて、人と人が出会うはじまりから、関係というのができていて終わる、それぞれの人が抱えている問題のようなもの、は解決はしていない、でもそれぞれが関わることで変化は起きている。人が出てきても、出来事が起きて解決したりしても、人と人が関わってないというか交わってないというか、それぞれがただ独り言を言ってるみたいな小説は多くて、人が人と関わっている、というのが描かれているのはすごい、そしてわたしはそのモチーフの薄さの豊かさというか、それだけでここまで勝負する、ということが、好きなんだよなあ。
9月5日(木)
夜に出かけるのは難しいなら、昼に出ればいいのではと思って、昼ごはんを外に食べにいった。行って良かった。
蔵をリノベしたカフェで、休日にはけっこう人が入っているのを見かけるが、今日は私ひとりで、静かだったので仕事にも集中できた。かかっていたスペアザの曲も良かった。
9月6日(金)
もうすぐ娘が1歳半になるところで、第一次子離れというか、第一次反抗期というか、そういう時期がきていると思う。
これまで娘と一緒にいる時間は娘が中心であたりまえで、寝不足きついとかワンオペつらいとか身体が痛いとかそういうのはあっても、娘中心に動くのはまったくもってあたりまえのことで、それで精一杯で、お酒飲みたいとか夜に一人で出かけたいとか思うこともなかったのが、最近は一人でというか、友達と飲みに行きたいとか、大人だけで遊びたい気持ちが出てきた。
日中一緒にいて、娘が起きている間は自分のやりたいことができないのもあたりまえだったのが、それもちょっとストレスに感じる。本を読んでいて、邪魔されるとイラっとするというか、本くらい読みたいと思うというか。でも娘も意志が強く出てきてるから、わたしが娘の思うように動かないと怒るというのが、すごく、人対人の関係になってきた。
なんらかの脳内物質が出て麻痺してたことが、もとに戻ってきてる、本来の自分が戻ってきた感じ。
午後に保育園からの呼び出し。まだ月に一度は体調を崩す。保育園で流行ったものはだいたいもれなくもらってくるのだが、年齢があがると流行る頻度自体が減っていくんだろうか。
9月7日(土)
子どもが体調を崩して、熱はないのだけど、全身が怠さのかたまりみたいにだるだるだらだらとしながら良く寝ていたので、本が読めた。久しぶりに読み返した柴崎友香の「きょうのできごと」がすごかった。圧倒された。緻密で緊密で。
これはいってみれば、今日ってどこからどこまでなんだろう、という小説。それだけで作品になってめちゃめちゃ面白いっていうのはやっぱり本当にすごい。
登場人物の若さ、人の話なんて全然聞かない、興味あることにしか興味ないというような、無敵感もすごかった。「待ち遠しい」と全然違った。ここから「待ち遠しい」まで変化するのか。
でも「待ち遠しい」の感じは「フルタイムライフ」の時にはもう少しあって、そして意外と「フルタイムライフ」が2005年という、もう15年も前の作品で、リアルタイムで読んでいたあの時がもう15年も前なのかと、そっちのほうに驚きが移った。「きょうのできごと」は2000年だから、きょうのできごとに描かれていない裏側、もしくはほんの数年後のこととして、すでにフルタイムライフはあった。
9月8日(日)
夜中、故意ではないけど子どもに頭突きをくらって、目に星が飛ぶというやつになった。
午前中に一人で「天気の子」を観に行った。天気を操るというモチーフがとても気になるものだったので、「君の名は」は合わなかったけどでも観に行ったのだけど、やっぱり相性が良くないというようなことを思った。
文字にするとすごく不謹慎なかんじになるけど、人一人の命で天気に影響を及ぼすなんてぜったいに有りえない、というのが一番気になって腑に落ちなかった。
祈ることで晴れること、そのぶん命がすり減ること、それはあると思う。祈りや想いには力があると思っている。だから科学的な整合性とかじゃないんだけど、自然にとっては人の命はどうだっていいこと、私は良く蚊をパチンと殺すけど、自然からしてみれば人も蚊も同じだろうという、自然観が合わないのかなと思う。
でも主人公がああいうふうに振る舞ったり考えたり、ああいうふうに誰かを思うことがそのまま世界のぜんぶに重なるものの感じ方は、主人公の年齢からするともっともかもしれない、35歳であるわたしにはもうそういうことはない、そういう時間がこれから娘にはやってくるんだっていうことを思うと、とても胸が熱くなって、羨ましいとは思わないけど、胸は熱くなった。そういうの全くなく、淡々と過ごすのかもしれないけどね。
毎日しているお絵かき、クレヨンの握り方が成長していたり、線の走らせ方、塗り方にバリエーションが増えたりと、成長している。