テオティワカンの洗礼

 

初日はテオティワカン遺跡へ行くことになっていた。目が覚めてカーテンをあけると、曇っている。晴れるといい、といちおう荷物にサングラスをいれた。ホテルを出ると、目の前の公園で市場が準備されていた。外に出ると空はすっかり晴れていた。屋台の骨組みやテントの色がピンクで、ブーゲンビレアが咲いている。色が強い。公園の奥にもピンク色の大きな建物がある。いきなりピンクを見せつけられる。街路樹は放射状に固そうな葉を伸ばす、南国の木だ。とにかく木が大きい。すでに日差しが強い。ここでは人工物がピンクでも全然違和感がない。

なんでメキシコに行くの。何度も聞かれた。「つばの大きな帽子をかぶった陽気なおじさんのイメージしかない」と言う人もけっこういた。確かに日本人に行ってみたいと思わせるイメージは少ないかもしれない。サボテンとソンブレロ。陽気そうな人々。ハバネロ。マフィアの麻薬抗争。母親達は、マフィアについてはネット上の情報が主だからあまり知らないのだろう、それよりもトランプ当選の影響による暴動等を恐れていた。折しも旅程は大統領選の直後だった。しかし彼の当選よりも私達が旅を決めた方がずっと先だったのだから仕方がない。夫に相談すると「そりゃ死ぬ覚悟でいくんやろ」と言う。その覚悟は何か根本的に間違えていると思ったが、私は、登山のようなものだと思うことにした。日本の日常生活より死ぬ可能性がすこしだけ高い場所として、備えていけば大丈夫。ニュースではセンセショーナルなことが取り沙汰されるけれど、普通の人が普通に暮らしている場所でもある。

私のメキシコについてのイメージは、ピンクや黄色の家だった。ピンクの家なんて信じられない。感覚がおかしい。感性の基盤が全く違う。そういう理解できないものは、よく見たほうがいい。旅先にメキシコを選んだのは夫がバラガンの建築を見たいと言ったからで、私はよくわからないものを見た方が良いと思って、その案に乗った。しかしピンクの家に対しての疑問は、初日の朝にあっけなく溶けてしまった。迫力ある大きな木々とピンクの家は、ブーゲンビレアの木と花のように調和しているのだった。

メキシコシティは標高2240mの盆地にあるから、朝の空気は冷たい。緯度は19.24と低いが(東京は35.41)高地にあるので暑すぎず、一年を通しての気温差よりも一日の気温差のほうが大きい。空気はとても乾燥している。乾燥しているのに南国の木が生えて、南国の鳥が鳴いている。標高が高いのに道は平坦で切り立った山の頂上は見えない。高原の空気が美味しいということはなくて、乾燥と排気ガスの不快感がある。こうだったらこう、という、経験則がここにあるものと反して、イメージがぐにゃぐにゃする。

テオティワカンへはバスターミナルから直行のバスが出ている。ターミナルまではメトロバスと地下鉄を乗り継いで行く。メトロバスに乗るにはプリペイドカードが必要だ。分かってはいたけど、販売機は無人で、スペイン語しか書いていない。その場へ行けば感覚的に分かるだろうとタカをくくっていたのが、全然分からなくて焦った。券売機の前で狼狽えていると、通りかかったご夫人が買い方を教えてくれた。といってもスペイン語なので、何を言っているのか分からない。私達はスペイン語が分からないのです。カタコトで言うと、ご夫人はとてもゆっくりと、スペイン語で話してくれる。

メキシコの人は親切で、言葉が通じないからといって馬鹿にされたり、拒絶されたり、嫌な態度をとられたことは全くなかった。旅行中に横柄さを感じたのはデルタ航空のスチュワーデスくらいだ。それはそれ、だから嫌だと思うのは違うのだけど、サービスを施すということについての基本態度がよくもこう違うものだと思った。すごく上からだった。それがメキシコでは道ばたでもバスの中でも、私達が何かに目を留めていると、必ず誰かが声をかけてくれて、その態度にはどこか申し訳なさそうな遠慮みたいなものもあって、祖母を思い出すような懐かしい感じがした。そして皆、話しかけてくれる言葉はスペイン語だった。

私達はジェスチャーと指差しで意思疎通をして、なんとかプリペイドカードを購入した。物凄く簡単なことが、初めての場所だと何倍も時間がかかる。地下鉄に乗る時の切符の買い方も同じようなもので、これは人から直接買うのですぐに何とかなったけれど、交通機関を利用するだけで無力さを味わうのが面白い。

メトロバス内のモニターには、停車駅名の他に、若い男性の顔写真と、スペイン語の字幕が映った。続いて写真は若い女性に変わった。辞書によると、字幕は「この人を知っていますか」という意味で、つまり行方不明者の情報だった。背筋が冷たくなる。地下鉄へ乗り換える時には、事務所の壁が行方不明者の張り紙で埋まっているのをみた。街中にいる警察の数も尋常じゃない。生きて帰りたい、とまた思う。

メキシコの長距離移動はほとんどが大型バスだ。バスターミナルは空港みたいに巨大で、中央にあるクリスマスの大きな飾りの周りを老若男女が行き交う。前にも後ろにも荷物を抱えたインディオのおばさん。Tシャツ短パンとラフな格好の白人の観光客。キャラクターものの靴を履いた子供連れの家族。カウンターに身体を乗せて場内を見渡すタクシーの客引き。

人の流れを全く無視して、入り口付近のコンクリートで犬が寝ていた。まったく静かに足を投げ出して、身体を横たえている。無毛種の雑種だろう、皮膚がなまめかしい。メキシコの現代美術作家、ガブリエルオロスコが街中を撮影した連作のうちの一枚に、こんな犬の写真があった。死んでいるのか気になっていたが、違った。明らかに寝ている。見ればわかる。ピンクの家。道ばたで寝る犬。来るだけでわかることがなんてたくさんあるんだろう。

バスの車窓からは、壁が或る限り郊外まで延々と続くグラフィティを眺めた。街の中心地を離れると、そんなに高くはない山の頂きがいくつも現れて、その斜面には、ピンク、水色、黄色といった色とりどりの家がびっしり立ち並ぶ。家はどれも、作り途中なのでは?という鉄筋がむき出しの状態で、でも洗濯物が干してあるから、人は住んでいる。メキシコシティは高地なので、お金持ちは少しでも酸素がある平地に、低所得者は山の斜面に住むらしい。一年を通して温かいとはいえ、朝晩は冷える。作りかけの家に雨風は吹き込まないだろうか。コンクリートブロックが重ねられた簡素な家は、自分たちで作るのだろうか。ポソポソ、ボロボロ、砂礫の崩れる音が聞こえてきそうな家は、形あるものは全て崩壊に向かって進む、という法則を、日々明らかにしつづけているみたいだ。

テオティワカン遺跡は、ピラミッドに登る順番待ちの行列ができるほど賑わっていた。紀元前からの文明の遺跡というと秘境のイメージがあるから、人知れず僻地にひっそり佇む姿を想像していたけど、実際は多くの人が訪れる世界遺産の観光地だった。足下の土は赤く乾いている。昼間の日差しにサングラスは手放せない。熱射病になって、頭から水をかけられている家族連れのお母さんがいた。日本人には全く会わなかった。ピラミッドは均整がとれていて、予想していた何倍も美しかった。今にもくずれそうな石組みを想像していたから、シンメトリーで建てられたそれに圧倒された。テオティワカンには太陽のピラミッドと月のピラミッドがあって、太陽の方は頂上まで上れるようになっている。標高を忘れそうな平坦さの中に、ピラミッドと対峙するように山がある。ピラミッドは山だ。そこに山があれば上るように、ピラミッドがあれば上るのが人情だ。ここの建造物は、周りの山や川との関係が緻密に計算されているという。木々は密生せず、間隔をあけて生えている。その間にサボテンの緑がちらちらとある。おおらかでのどかで気持ちが良い。太陽のピラミッドの後は月のピラミッドに上った。こちらは階段が急で、一段一段の段差が大きく手すりがなければバランスを崩しそうなくらいだったけれど、みんな踊るように、熱心に階段を上り下りして楽しげだった。

テオティワカンは紀元前2世紀に築かれ、その後800年にわたって栄えた。文字のない文明だったから分からない事が多く、発掘された遺跡も全体の僅かに過ぎないという。テオティワカン、太陽のピラミッド、月のピラミッド、死者の道などの名前は、12世紀にすでに廃墟となっていた遺跡を発見したメシカ人(アステカ人)によってつけられた名前で、彼らはこうした場所があることは噂には知っていて、そこから約50km離れた場所へ都を作り、神々が住む偉大な土地として、この遺跡を崇拝の対象としたという。

驚くことに、これらの建物は使われていた当時は真っ赤に塗られていたらしい。ピンクはいけると思ったけど、さすがに赤はどうか、と一旦は思うのだけれども、土も赤っぽいし、石に塗られてマットな乾いた印象になるのだろうから、毒々しさはないのかもしれない。深紅というより煉瓦色に近い色を想像する。

メキシコシティの日は長い。夕方に戻って来たバスターミナルは西日で満たされていて、全てがゆっくりと豊かに動いている気がした。暖かな気温がとても心地良い。真冬から来た私は、春を懐かしく思い出した。犬の散歩、行楽帰り、それぞれ楽しそうに休日の終わりを過ごす人々。日曜だからか、メトロバスからみえる店のほとんどは休みで、日に穏やかに照らされている。翌日以降は暮れ始めると一気に暗くなる太陽のつれなさに意識がいくようになるのだけれど、この日は六時を過ぎても明るい、春めいた夕方が気持ち良くて仕方がなかった。

歴史的建造物の物見遊山はどの国にも共通するのだと嬉しくなって、何のためのピラミッドなのかとホテルに帰ってから調べた。すると、それらは宗教的儀式を行うためのものであり、祭壇では生贄を捧げる儀式が執り行われたという。生贄。そんなことガイドブックに書いてなかった、と思って改めて読んでみると、「生贄のための」「生贄を捧げて」など当たり前のように書いてあったのでまた驚いた。人身供犠はメソアメリカの古代文明に共通するもの、ということがこの後の旅程で体感されていくのだけれど、この時はまだ良く分かっていなかったから、生贄を捧げる場に皆で順番待ちして並んで、きゃっきゃっと階段を上り下りしているのか、と少なからずショックを受けた。写真を撮ってしまったけれど、大丈夫だろうか。とにかく、夜はずっとメソアメリカの生贄文化についてwebで記事を探して読んだ。

「生贄がさ・・・」

次の日も朝起きるなり布団を被って、図らずも妖怪じみた格好で話しかけたので、「取り憑かれてる!大丈夫かっ」と夫に両肩を揺さぶられた。