バラガン建築 人生の家

 

メキシコの建物に特徴的なピンクは、いわゆる女の子らしさをイメージさせるピンクじゃない、国を代表する花のブーゲンビレアからくるピンクで、クリーミィさがなくて、青みがかって澄んでいて、強い。和の色名で浮かぶ、桃色や桜色とは全然違う。どうでも良いのだけれど、メキシコのピンクを見ていたら、叶恭子のことを考えた。日本人からすると過剰にも思われる彼女のビジュアルは外国人男性には大人気というのが、メキシコに行ったらわかる気がした。

私達は毎日、メトロバスと地下鉄、たまにタクシー、そして徒歩で移動した。知らない街へ出掛けたら、できるだけ歩いてみたい。しかしメキシコシティは歩行者に厳しい。車優先社会なので、青信号で横断歩道を渡っていても、車が猛スピードで曲がってくる。全く容赦なく歩行者への注意ゼロで来る。マフィアの麻薬抗争に巻き込まれる可能性はほぼない、強盗の被害も丸腰で行動しなければ大丈夫という肌感覚がある中で、車こそ油断したら死ぬと思った。とにかく凄いスピードで曲がってくるのだから。怖くて私は信号を渡る度に走った。基本的に走ることにした。そんなだからたまに渡るのを待ってくれる車があると、何て親切だろうと感動した。もうひとつ、排気ガスも酷かった。車の年代が様々というか、ハイスペックな大型バスから、真っ黒いガスをひたすら吐き出す路線バス、ボンネットがガタガタのセダンまでが混合して走っている。旅行中、和食が食べたくなることはなかったけど、日本の思い切り吸い込める空気は恋しかった。

道は概ね歩きやすかった。ただ、歩道には突然現れる大きな穴があった。陥没したらしいそれもあったし、つくられたらしいそれもあった。けっこうな深さがあったから、上をむいて歩いたりして落ちたら、打ち所が悪ければ大変なことになると思った。メキシコシティはぼおっと歩いてはいけない場所だった。

この日は午後にプリエト邸見学の予約をしていた。プリエト邸は、南に向かうメトロバスの終点近くで降りて、さらに西に向かって丘を上った住宅街にある。メキシコシティは西に港区的な大使館や高層ビル群、上野的な博物館や美術館の密集した公園、南に高級住宅街、大学があって、バラガンの建築はすべて西か南にある。北と東は工業地帯と低所得者層の宅地だ。札幌も西と南に高級住宅地があって、犯罪件数も少なく、北と東は工業地帯だ。東京もかなり大雑把にいえば、そんな東西南北の関係だと思う。ある条件下でみられる東西南北の力学があるのかな、と思ったのだけど、どうだろう。

プリエト邸は城の石垣のような高い石壁で覆われていて、始めは全然入り口が分からず、端から端まで何度も行き来してしまった。なんとか見つけた呼び鈴を鳴らすと、中から日系の大柄な若者が出てきて、私達を温かく出迎えてくれた。

門の中には、城壁とも思われた外の印象とは全然違う、心地良い大きさの空間があった。家を取り囲む壁と、家の壁の間にあるこの空間は、何て呼ぶんだろう。火山岩の床、テラコッタの家壁、多肉植物の植栽。自転車や4WDが停めてある車庫に生活感があって、外から見るよりずっと親しめる。

見学者は、建築士だという中国人の女の子、建築好きなスペインの若者、アメリカから来た日系の家族など、私達の他に何組もいた。中国人の女の子はアメリカで働いていて、日本の事務所にいたこともあるという。彼女がいた事務所「イーニュウィーキュムウーコー」というのが5回くらい聞かないと乾久美子(日本の建築家)に変換されなかったので、カタコトでも通じるだろうと思っている考えは甘くて、発音の重要性を知った。ここを案内してくれた彼の、非ネイティブの英語は分かり易かった。

建物の中に入るとまず天井が高くて驚いた。この規模感は写真では全然分からない。玄関からは、左下と右上リビングに階段が続いて、その奥にある窓からの光が、見えていない空間の広がりを予感させる。玄関の床は外と同じ溶岩で、壁は白、天井や家具は木、その全てに温かみがある。壁は薄い青緑に塗られている部分もある。白壁との設置面が磨りガラスになっているから、鈍い青緑の光が奥に反射して、空間全体にどことなくその光が広がる。

一般的にガラスから見えるのは外の景色だけれど、すりガラスが入れられると、景色は抽象化されて「光」になる。バラガンはこの光の使い方に意識的だったという。プリエト邸には、採光の位置と壁の色によって生み出される複雑な光の効果がいろいろな所にみられた。玄関はそれが比較的おおらかに感じられるところで、廊下を曲がった瞬間や、広間まで来て振り向いた瞬間にそれを感じさせる、ドラマチックな展開が意図されたところも多くあった。

現在も人が暮らしているリビング、ダイニング、キッチンを案内に沿って進んでいく。キッチンは実際のもの、雑誌などの写真含めて、今までみたそれの中でいちばん好きだと思った。

窓は南、東、それぞれに大きく採られている。家の外からは見えなかったけれど、リビングとダイニングには大きな芝生の庭が接している。東側には一階分下がった所にプールと溶岩の庭があった。いったいどこまで広いのか。

玄関に戻り、プールのある庭側の奥まった2階部分へ進む。廊下に入ってからリビングを振り返ると、高さのある磨りガラスからの光が反射する空間が上の方にあったので、いたく感動した。

廊下の先にはバスルーム、トイレ、寝室があった。どの部屋も南からの日差しを受けて、穏やかに明るい。「あなたはここに住んでいるのか」。羨望を込めて案内人の彼に聞くと、自分はここには住んでいない、住人の友人なのだという。寝室からは庭のプールがよく見える。その奥には溶岩をそのまま利用した庭園がある。黒くてごつごつした、けれども気泡の空いた軽そうな溶岩にサボテンが生えていて、イグアナが出て来そうな雰囲気だ。最奥にはハンモックの置かれた台場まであって、ちょっとした秘密基地は見ているだけで心が躍った。

ここは「ペドレガルの庭」という、バラガンがディベロッパーとして開発した地区にある。今では信じられないくらいの豪邸ばかりならぶ高級住宅街だが、もとは溶岩で覆われた荒れ地だったらしい。彼はそこに道路を建設し、水や電気をひいて、岩で壁を作り池を掘って噴水をつくったという。

ここで少し、バラガンについて説明したいと思う。ルイスバラガンはメキシコを代表する建築家で、代表作の自邸は世界遺産に登録されている。1902年に生まれて、メキシコシティよりも北にあるミチョアカン州マサミトゥラで子供時代を過ごす。富裕な地主階級の息子として広大な農園と牧場、いわゆる当時の「アシエンダ(日本語にすると大農場、荘園)」と呼ばれた環境の中で育った。このアシエンダの日々はバラガンの原風景であり、その原風景の再現がおおきな制作の意図だったとプリツカー賞受賞のスピーチで話している。メキシコの大学で学んでから23歳でヨーロッパへ2年間の旅に出て、コルビジェなどのインターナショナルスタイルに触れる。しかしバラガンを開眼させたのは、フェルディナン・バックの探求していたスペイン地中海様式の住居と庭の在り方だった。帰国後は10年間グアダラハラで主に住宅を手がけ、メキシコシティへ出てきたのは34歳の時だった。はじめは、インターナショナルスタイルのアパートメントを建てては売っていたが、1940年代に入ってからは建て売り的な仕事のスタンスから、土地を購入し、庭を作り、住宅を建てて分譲する「ランドディベロッパー」として仕事のやり方を変えていく。そのきっかけになったのが自邸を含む一連の住宅だった。インターナショナルスタイルは、柱と梁による構造、軽快さ、プランの自由度、大きな間口による透明性が特徴だが、自邸以降、バラガンは通りに対して壁を立て「閉じる」スタイルをとるようになる。メキシコの伝統的主流である煉瓦や石を積み上げる組構造に立ち戻り、風との調和や空間の質感、影の効力を意識した。というのが齋藤裕「CASA BALAGAN」からの要約。

プリエト邸は、チェーチョ・レイエスという画家及びメキシコ美術工芸の目利きだった人物によってインテリアや工芸品の配置などが図られている。ここでバラガン建築に色の要素の付加がおこり、メキシコの感性やメキシコの美の再発見、メキシコ人としてのアイデンティティの表現がされているという。

玄関から左側の階段を降りて、左側の建物には2階と同じくバスルーム、トイレ、そして子供部屋と書斎があった。右側の建物には溶岩が部屋の中にせり出したリビング、溶岩をくり抜いて作られたワインセラーがある。溶岩と暮らす(!)。メキシコの空気の中では、リビングの南側一面がせり出した溶岩でも確かに違和感がない。

一通り歩いて、子供の頃の居住空間を追体験するような気分になっていた。もちろんこんな広い家に住んでいたわけではないけど、岩場の秘密基地、プール、大きなダイニング、かわいい子供部屋など、子ども心にこういうものがあったらいいな、と夢想したものが現実になったみたいな家だった。バラガンは、プリツカー賞受賞のスピーチで、「私の建築は自伝的なものです。すべての作品の根底にあるのは、子供時代と青年期を過ごした父の牧場での思い出です。遠く懐かしいあの日々の不思議な魅力を、つねに現代の暮らしに合わせてとりいれようとしてきました」(1980年プリツカー賞受賞のスピーチにて)と話している。確かにこの家の大きさ、スケール感には、大人を、何か大きなものに包まれていた子供時代に引き戻す作用があると思う。メキシコ人の体格はけして大きくなくて、日本人とあまりかわらない。私は子供の頃の、世界に取り巻かれる感じを思い出した。目に見えるものを全身で享受していた頃。全体感を持って生きていた頃。子供も子供なりに社会やその最小単位としての家族内での役割があって、私はそこで漠然とした悩みや不安も持っていたけれど、世界の全体感のようなものも確かに受け取っていた。そもそもそんな頃があったことを忘れていたけれど、思い出したのだから、私にもそういう頃があったのだ。郷愁、というよりもっと明るくて安心感のある、なんともいえない、心の柔らかな部分に触れるもの。それでいて、住居内には静けさもある。静謐な光が祈りを啓発する。光は、時間とともに醸成された記憶を持つ心に響く。

子供から老人まで居心地良く住める家。空間の完成度があるのに、親密で、開放感があって、明るい。「人生の家。家は人生」と思った。ハウスメーカーのコピーみたいだけど、ハウスメーカーだって、本来的に目指しているもの、志しているのはそういうものだろう。

バラガンはメキシコの気候風土に根ざしたものを志向した。光への意識は、日差しの明るさと影の静けさの両面を持つ。溶岩、石、木。この家はメキシコらしさが圧倒的な作家性のもとに昇華された作品だ。それなのにおおらかで、住みたいと思える。静けさはあるけれど、緊張感がない。建築家の建てた家には、維持管理が難しそうとか、素敵だけど埃がたまりそうとか、吹き抜けすぎて寒そうとか、ツンとしてそうで少しの汚れも許さなそうとか、なんか住むのが面倒臭そうとか、そういうこと言ったら面白くないでしょ、ということをしかしどうも考えてしまうなと思うイメージがあったのだけど、そういう怯ませるものがなかった。この家に住みたかった。

家を見学して面白いだろうか。正直訝しんでいたのだけれど、面白かった。導いてくれた夫に心から感謝した。メキシコで過ごす日程があと10日あるけれど、もう今日帰ったっていいくらいだと思った。ちなみに、バラガン建築は協会によって見学料が全て統一されていて、見学だけの場合は一人当たり日本円換算で約2000円。写真を撮る場合はプラス3000円が必要。

コンニチハ~。

プリエト邸を後にしてすぐすれ違った軽トラの窓から、若いお兄ちゃんが声をかけて過ぎていった。爽やかで気持ち良い挨拶だった。途中で寄った銀行の両替が恐ろしく時間がかかったので(システムが不調だったそうなのだが、できないならできないと早く言ってくれればいいのに、あともうちょっとでできる、あともうちょっと、と言うから、私達も他でやると言えばいいのにやってくれてるからと付き合って、1時間以上費やしてしまった)タクシーに乗ることにした。次の目的地は街の中心部の市場で、タクシーは目抜き通りを走って行く。これが恐怖のドライブだった。車通りは当然多くて、信号を渡る歩行者の数も多い。この交差点でそんなにスピード出さなくても!今無理に車線変更しなくても!歩行者通ってるけど!何度も心の中でつっこみながら、後部座席ににシートベルトがないのがこんなに不安なこともないと思って、前の座席の肩にしがみついていた。前の車を追ってくれとは頼んでいないけれど、そんな感じだった。信号で停まるタイミングも多いのに、町の中心部で100km出せることが驚きだ。怖いのだけど、車を身体の延長のように滑らかに操作するから、運転が上手いなあと感心もした。歩く場合も乗る場合も、車と身体の距離が近い。滑らかなのだ。そういえばメトロバスは三両編成のバスだが、運転手はそう感じさせない程スムーズに曲がるし、ぐいぐいスピードを出す。どこまで長いの、というトレーラーがいくらでも走っている。メキシコ人は車の運転が上手い。

そんなこんなで5時過ぎに市場に着いた。空は夕方らしい暖色にかわりつつあって、でもまだ十分に明るい。この市場はメキシコの民芸品を集めた市場で、ビーズ、プエブラ焼き、陶器やビーズでできたスカル、オトミ族の刺繍製品、メキシコ各地から集められた派手なボーダーの織物や、胸元が鮮やかに刺繍されたワンピース、民族衣装などが密集して売られている。こんなに骸骨ばかり置いてあって明るいのが凄い。

市場の奥は市場で働く人の住居になっていて、民族衣装を着たインディオのおばさんや娘さんたちが、通りに椅子を出してお互いに髪を梳かし合ったり、子守りをしながら店番をしていた。ペドレガルの庭の豪邸、市場のインディオ。どっちがどうというのではないが、凄く落差がある。民族衣装は本当に格好よいのに、彼らは貧しいことが肌で感じられる。

夕暮れの中、さらに街の中心地へ向かって歩く。キッチン、照明、タイルなど住宅設備品の店が並ぶ通りがある。makitaのビルもあった。賑やかな場所なのに、急に廃墟が現れる。うわ、と思ったら、それは人も車も出入りする、使われているタクシープールだった。廃墟をみるとどこか心がざわつく。メキシコの人は細かいことは気にしないのか。形ある物は壊れるけれど、その現実をいつもまざまざと感じながら生きるのは精神的負担にならないんだろうか。

街一番の中心地、ソカロへ繫がる通りへ出ると、それまでになかった人通りに圧倒された。新宿駅構内、もしくは原宿の竹下通りといった人の多さだ。展望台に上ってメキシコシティを俯瞰したかったのだけど、展望台へのエレベーターは通りにまで長い行列ができていて、文字通り日が暮れそうだったので諦めた。日が落ちると治安が一気に不安になるから、そろそろ帰らないといけない。そう思ってから暗くなるまではあっという間だった。日本の12月と違って6時過ぎまで明るいのに、夕方が短くてすぐ夜になってしまう。誰そ彼、と言っている悠長さがない。歩き始めてすぐ真っ暗になったので焦った。さっきまで明るかったのに。