朝の違い 色と時間

 

大晦日の朝。夜にオアハカへ向かう夜行バスに乗るので、一度メキシコシティへ戻る。夜明け前にグアナファトの宿を出た。日が昇らないと、ヒートテックにダウンジャケットでも寒い。

高速バスに乗り込んだのは7時頃。まだ空は全体には暗くて、やっと際が薄く赤くなったくらいだった。車窓は大きくて広々としていたから、私は夜明けの変遷が窓に大きく展開するのを待って外をみていた。しかし期待したことは起こらなかった。空は確かに明るくなって、夜ではなくなる。でも何か違う。曇りなのかと思わせるように一旦空から色がなくなって、それがいつの間にか青空になった。そういえばこの感じ、メキシコに来てから何度もあった。感じていた違和感が繫がる。もしかしてこのあたりの朝とはこういうものなのかもしれない、と思い始めた。

私のイメージの中にある朝は、晴れた日は太陽の光が大きく空全体に渡って、雲や風の流れと響き合って、時によっては畑や田んぼや、白く雪の積もった山を照らして、その全体で刻々と変化していく舞台のような景色を見せてくれるものだ。だから、朝ってそういうものだと思っていた。しかしどうやら違う。ここの朝は私がそういうものだと思っていた光のドラマみたいなものがなくて、淡白だ。

着物の商品づくりをしていたとき、「朝十色」という商品名を付けたことがある。あさといろ、と読むそれは、具体的な十色を指すのではなく、さまざまに変遷していく朝の色という意味で、その商品カテゴリの中にさらに具体的な色名のついたそれぞれがあった。この言葉はデザイナーが色名や和文化に関する言葉の中から見つけてきたもので、こういう言葉を持っている日本人の細やかな感性とか、色を表現する言葉をたくさん持っている私達と、その言葉が乏しい彼ら(この彼というのはどこか違う国や文化圏の人のことであって具体的な誰かではない)では見ている世界が違う、という言い方があるけれど逆だ。その場所ごとにみえる色の違いがあって、それに応じて言葉が生まれ、感性が育まれる。メキシコの朝の色はとても少ない。そして短い。

私は色に加えて、その変化が感じさせる朝の時間感覚のことも思った。朝というとどうも「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山の端」というフレーズが頭に浮かぶのだけど、このフレーズには時間が含まれている。瞬間の景色ではなく、だんだんと明るくなっていく山の端、という時間の尺がある。それがメキシコ中央高原の朝には、だんだん、変遷、移ろい、といった感覚がなかった。太陽はいつのまにかそこにあって、一旦昇ってしまえばそれがさっきまでなかったことが嘘みたいに、ひたすら強く照らす。

メキシコの古代文明の人たちは、明日も太陽がのぼる、ということを信じられなかった、と何かで読んだ。たしかに朝の太陽はあっという間にのぼるし、夕方の太陽はあっという間に沈んで、どちらにも間合いの時間がない。突然訪れる朝を体感して、太陽への不信感というのが、なんとなくわかるような気がした。

そういえばメキシコには季節も雨期と乾期しかないという。標高が高いこと、緯度が低いこと、乾燥していること、あわいの時間がないこと、どれか一つが決定的にということではなく、そういうひとつひとつが関係し合ってこの土地の気候を生み出して、それがまた育つ植物を、動物を、微生物を規定して、それが人の食べ物、衣服、住まいを規定して、その場所で生きるために必要な心の支え、精神性、感性を形作っていく。そうしたなかで生まれたもののなかには宗教も含まれて、気候風土は宗教にも先立つと思っているのだが、メキシコの古代文明社会で信じられていた宗教は、価値観の180度の転換を求められるような、私にとってほんとうに衝撃的なものだった。こういうあり方を人に要求させる場所が、自然環境が、気候風土が、存在したということに、強いショックを受けた。

端的にいえば、それは生贄に関するものだった。