子どもの目線

『きんぎょがにげた』

五味太郎 作
1977年6月こどものとも年少版発行 1982年8月福音館の幼児絵本第1刷発行 2018年155刷発行
福音館書店

 

これも定番。

ある一時期娘はこれがすごく好きで、なんどもなんども持ってきた。その時はまだ、金魚を見つけることはできなくて、むしろビリビリ破きたい時期だったので、いくらかこの本も負傷してるけど、いつのまにかそういうことは全くしなくなった。そしてこの前久しぶりに読んでみたら、金魚を指させるようになってた。やっと遊び方を身につけたのだが、でも今は、そんなに食いつかない。というか、1歳8ヶ月の今、絵本への興味が全体的に薄れている。

そういう時期もある。ほんっと絵本すきだねーっていう時期と、あんまり興味なくなったねっていう時期と。それはそれ、そういうものということで、全然いい。

で、きんぎょがにげた。くだもの、お菓子、おもちゃ、ドレッサー。いろんなものがたくさん描いてあるので、これはなになに、これはなになに、と指差しながら話して楽しめるのもいいところ。娘は、描いてあるものを指差して、その名前を聞く、というやりとりが好きだった。

この本で印象的だったのは、娘が1歳半くらいの、車をブーブーと言いはじめて少し経ったくらいの頃、おもちゃ箱の中身が描いてあるページの、すごく小さく描かれた車を差して、「ブーブー」と言ったこと。

そこに車があったのかと、まったく気づいてなかったことを指摘されて、ハっとした。いつの間にか、すごく細かく物事が見えるようになっている、と思った。こちらが見えてないもので見えてるものがたくさんあるんだろうと思わされた。

娘の見ている世界がどういうものなのか知りたい、その目で見てみたいと思うけど、無理なことで。言葉の少ない、文字のない、抽象化されてない、生に近い世界が広がってるんじゃないかと思うけど、たくさんの言葉を得て、文字を得て、抽象化して情報を得てるこの状態から娘の状態に戻るっていうことはできない。ただ視線を低くするとか、凝視してみるということではないのだ。脳の仕様が違うんだから。ただ、そこに目がいくんだっていう鋭さから、なんとなく推し量るしかない。

いや、鋭いと思ったけど、逆で、車を認識してるからそこだけクリアに見えた、ということかも。感覚として、それに関する言葉を多く持っている方が、語彙が多い方が、世界は細かく見える、感じられる、と思うのだが、それは子どもの発達においてもそのままそうなんだろうか。それともやっぱり言葉を介さないぶんの豊かさがある、生の世界、こちらとしては触覚に富んでいるようなイメージを持つ世界の中に、娘はいるんだろうか。

いま、彼女はどういう感覚の中にいるんだろう。何が伝わってて何が伝わってない、というのは反応でわかるけど、彼女の体感してる世界は、彼女になってみないとわからないし、大人がそれを体感するのは無理だ。でも想像してみるのは面白い。