富山をいいと思う

 

9月9日(月)

子どもと家の前の駐車場とか空き地でちょこちょこっと遊ぶというか、ゆっくり帰るというか、そういうふうに過ごす時間があるようになってきていて、娘も朝はまっすぐ寄り道したがらず歩くのが、帰りは寄り道したがる。

子どもだけでちょっとこういう隙間に入って遊んでる、ということはある、でも大人が同行してたらアウトな感じっていう空間てたくさんありそう。ていう場所に子どもはアリなの?誰かが注意してくれるだろうことに任せていいのか。先回りしてダメだって言っておくほどのことなのか、違うのか。

アリナシの境界がわたしはやっぱりちょっとよくわからない。

小さい頃を思い返してみたら、よく遊んでた公園のフェンスの外の斜面に蔦とか蔓とかあつめて秘密基地とか作ってたけど、それもそういうことやってよかった場所なのか、そこにそういう造形物があってよかったのかとか、よくわからない。

公の感覚、それがどこからどこまでなのかがよくわからないということなのかな。

 

本棚から横山裕一の画集、といってもペラペラした冊子的なものを自分で出してきて、面白そうに眺めている。わたしはそこにあることを忘れていた一冊だった。嗅覚みたいなのが身についてきてるみたいで面白い。気に入った様子。

過ごす時間が長いと娘だけでなく私もなにか映像をみたくなって、youtubeで娘の好きなパプリカにつづけて(米津玄師版のアニメはわたしも大好きだ)、Penguin Cafe Orchestraとかspecial othersとか流してみるとそれも楽しそうに踊る。わたしも一緒に阿波踊りみたいな振りで踊る。

身体を動かしたい、ダンスやりたい、けどHIPHOPとかジャズダンスとかは精神性を身につけるのが困難そう、かといって日本舞踊とかじゃなくてもっと発散する系がいい、何かないかと思っているのだけど、盆踊りとかってどうなんだろうか。今度ちょうど五箇山民謡の取材があって、その祭りの日には踊りの指導もしてもらえるから、試してみよう。

 

9月10日(火)

雑草が生えているところは、ひょろりと一本コンクリートから伸びているのがパラパラ並んでいるところと、もさわあっと密集しているところがあって、密集部分にいる蚊の量が尋常じゃない。

さすがにその密集部に入っていくことはないのだが、フェンス越しに密集部がある部分で娘が座って遊ぶことはあって、フェンスの向こうにチラチラ光と同化して見えにくい蚊が、それはもう恐ろしいほどいるのが見える。そのうちフェンスを越境してくるのは数匹、それでも3〜4匹はいたかな。

娘にはきっちり虫除けを塗っていたので刺されていなかった様子。わたしはラフにシューっとスプレーしただけだったので、肌にとまったのを2匹叩いた他にも足まで含めたら5箇所くらい刺されたけど、もう蚊の力が弱まっているのか、盛夏に刺された時は腫れまくったのが今日のは全然で、赤みも痒みもとても弱い。

 

娘が、遊んでいる途中で帰ってこられて挨拶をしてくれる近所の人に、バイバイと手を振れるようになった。

 

9月11日(水)

福光美術館へ棟方志功展の取材に行く。人に会って話ができた、対話をした、お互いに話すことで気づくものがあった、良い時間を過ごした、という良い仕事だった。

棟方志功は頭にハチマキみたいなものを巻いて作業している写真がのこっているのだが、それはハチマキではなく紙縒(こより)で、しめ縄という意味で巻いてたらしい。その話を聞いた時にカメラマンさんが「あたまに降ろして、閉じ込めてるんでしょうね」と平然と、さらりと、当たり前のように言ったのが面白かった。

降ろして、というより、勝手に降りて来ちゃう感じかなと、わたしは思ったけど、そういうふうに思考が形をとる前に、カメラマンさんがシャっと言語化したこと、その速度みたいなものを、すごく面白く感じた。

 

9月12日(木)

また涼しい秋の気候が戻ってきた。

棟方は女性を崇拝するようなところがあったらしい。女の人を描いて仏様にしてしまうような。

女性の差別、というようなものについてずっと考えている。ある、そのことへの怒り、というよりも、なぜそれが起きるんだろうという社会の構造的な仕組みというか、人間の思考と社会構築の仕組みの負の側面みたいな、文化人類学的な興味になってしまう、そういう視点てどうなんだろうと思いつつも、そうなってしまうのだけど。

そして、女性は大変、女性は差別される、女性は苦労を強いられる、という今の社会の現状があるとして、そしておそらく歴史の長い時間のなかで女性は差別される性だったということがあっただろう、それはそれとして、でも社会の、歴史の外側、生きていることを基盤とした一番外側の世界というか、社会や歴史をも内包するもっと大きな「生」というステージでは、産む性って圧倒的な優位さがある、それもずっとそうだったはず、という女性性への強い信頼感のようなものが、自分のなかにある。

社会の外側にある世界と、存在の肯定ていう、そういうものを形にしたいのだけど、どうしたらいいのか。大変なんだけど、まあ大変さはそれぞれ、女性にも男性にもあるはずだけど、生きていることの大変さではなくて、女であることの大変さを感じている人がすごく多いのだとしたら、女であることはそれだけで良いのではという、子どもを産んだとか産まないとか、何人産んだとかじゃなくて、そういうことでもなくて、ただ肯定するという、そういうことがしたい。

大変すぎて忘れさせられていることがあるはずで、それを取り戻すみたいな、そういうものをつくりたい。

 

9月13日(金)

障害を持つひとについてのあれこれについての聞き書きの文字起こし。

子育てに似ているところが多い、とよく感じる。甘えさせたら一生甘えん坊になってしまうように思われるけど、そうじゃなくて、十分に甘えきることで自立できる、というようなことが子育てには言われるけど、おんなじだなと思うことが多い。

あと、女性の世界というか、妊娠出産の世界って、それがなければ誰も存在していない、いちばんの基盤なのに、それが辺境になっているという事態があるなあと思う。障害を持っている人についての話と同じような、分母の数は違うかもしれないけど、でも同じような少数派の、社会の中心じゃない、辺境さがある。

誰もがそこを経てこの世に生まれているのに、妊娠出産がそうなっているって、なんとも不可解。言語を、歴史を、規律を、秩序を、つくってきたのはずっと男性だったということなんだろうか。だからそうなっているんだろうか。というか、そういうふうに分担することでそれぞれの性がそれなりに同等であってきたんだろうか。

その役割をも女性が担ってきていたら、女性と男性というのは、人対豆みたいな存在価値の偏重が起きる、ような気もする。

 

9月14日(土)

福光美術館にヤマザキマリの講演を聴きに行ってから城端の麦屋祭りへ。

福光の道の駅でお昼を買って、美術館前の芝生で食べた。道の駅がものすごく良かった。栃餅があったり、イチジクやブドウがすごく安かったり、ドクダミやスギナの手作りぽいお茶が売っていたり。山の気配が濃厚で、売っているものが街場とは全然違って、興奮した。福光とか城端とかほんとすごくいいと思う。

娘と臨む講演会は1時間が限度で、もちろん娘はおとなしく聞いてるわけじゃなくてベビーカーに乗ったり降りたり押したり、椅子に乗ったり降りたり、飲み物飲んだりを会場の一番後ろ側、ほぼ通路のところでやりながら過ごしつつ私の耳は聴いてるみたいなことだが、それもできるのは1時間で、でもそれで十分良い話が聴けて、満足した。

それから城端へ移動して善徳寺会場で麦屋まつりをみた。地元の人による地元の人のための祭りというかんじ、観光コンテンツにはならないのかなと思ったけど、それが逆にすごくよくて、胸を打たれてしまい、帰り道の景色もめちゃめちゃきれいで、すっかり富山が大好きになってしまった。南砺に行くとほんと富山いい!と思う。

ほんものの田舎、という感じがある。家がかっこういい、黒光りする瓦屋根の家が景観をつくってるのも大きい。

ちょっとポーっとしてしまうくらい、富山が好きになってきている。お寺が文化を作っているということにも、そういう場所が存在するのか、という、カルチャーショックのようなものがあって、それがまた、すごく新鮮で、なんだかすごくいいのだ。

 

9月15日(日)

富山県美術館で美術とデザインの展示をみてから富山空港へ夫を迎えに行った。富山県美術館は企画展のスペースが少なくて、いつもこれで終わり?という感じがして、物足らない。福光美術館のがいい。

田園風景の中を運転するのは楽しい。車の運転はけっこう好きだな。

子どもはやっぱりもうすっかり、わたしのことをちえちゃんと呼ぶようになった。二人でいるときにちえちゃんと呼びかけてはこないけど、わたしがトイレにいったり洗面所にいったり、姿が見えなくなると「ちえちゃーんちえちゃーん」と呼びながら探しに来るのがめちゃくちゃかわいい。

食料品の買い物に行った時も、スーパーにつくといつも夫と娘はまずお茶を飲んで、その間わたしはカートを押して一人で買い物をするのだけど、そうして先に行っていたわたしを見つけた時に、「ちえちゃーん!」と言いながらほんとうに嬉しそうに笑って、駆け寄ってくるのが、めちゃくちゃめちゃくちゃかわいい。

今日はわたしが掃除機をかけようとしたら、扉をあけてほしいと主張するので、あけたら、コロコロを取り出して、私の掃除機の後ろにコロコロをかけながら付いてきたので、天才かと思った。それをfacetimeでばあばに報告していたら、またコロコロを持ってきてコロコロして見せたので、天才だと確信した。