線が力強くなった

 

8月21日(水)

夫の手術。鼻の中にばい菌がはいってるという、昔でいうところの蓄膿症の手術らしい。鼻水がずっと出ているなどのそれっぽい症状はなかったけど、歯科検診で発覚して、手術することになった。

全身麻酔をするとのことで、心配した義母が三重から車で来てくれた。わたしは、まあ大丈夫でしょう、大人だから自分のことは自分でねという感じで全然心配してなくて、入院の準備も夫は旅行にいくみたいなかんじで一人でやっていて、それよりも子どもの熱のほうが心配で、でもそういうものかなと思う。来てくれるのはさすがお母さん、と思った。そして来てくれて有り難かった。

娘の熱がまだ8度以上あったので、わたしは手術に立ち会えなかったというのは結果そうなってしまったのだけど、そういうこともあって、来てくれて助かった。

夜はうちに泊まってもらったのだけど、娘が人見知りを発動して、義母が部屋に入ってくるなり玄関へ逃げて、下を向いたまま、服のすそをひっぱったりして、いわゆるモジモジという感じになったのが、面白かわいかった。いわゆるモジモジすぎて笑ってしまった。そんなモジモジどこで身につけたん、というようなモジモジだった。

わたしは娘が生まれてこのかたそんな仕草したことないし、夫や祖父母や友人親戚その他夫がそんないわゆるモジモジをしたこともないし、テレビでもやってないと思うけど、やってたりするのかな、あとは保育園の子とか?それとも別に真似してとか学んでとかじゃなくて、なんとなくバツが悪いと人というのは下を向いて服をひっぱってモジモジするのだろうか。

学んだもの、ではないかもしれない。あれは人の本能的な?仕草なのかもしらん。何か伝えたいとかじゃなくて、もう身体が勝手にそうなっちゃう、という。

娘を少しのあいだ放っておいてから迎えに行って、わたしの膝にのせて義母と相対したら、逃げたり泣いたりせずに座っていられて、そこからは義母のあやしが上手なのでわりとすぐに笑うようになって、30分もしないうちに踊りを見せるほどに打ち解けられた。

 

8月22日(木)

義母と娘と3人で朝ごはん。3人で過ごした時間はとても楽しかった。子どもが4人、孫も4人いるだけあって、なのか、泣いてる子どもをあやすのがとても上手!少し室内で遊んでから、夫の病院へ。こういうことでもなければこんなこともなかったわけで、来てもらって良かった。

夜、フェルトのおもちゃで遊んでいたら、娘が突然の大泣き。床に仰向けになってのけぞって、頭と足だけで身体を支えて、背中を床から離して、息が止まりそうなくらいの大泣き。のけぞる、戻る、のけぞる、戻るを繰り返して尺取り虫みたいに室内をすすんで、頭を壁にぶつけて、また大泣き。みるみる汗だくになっていく娘。泣くのもとまらない。あっちにいったりこっちにいったり、尺取り虫のままズルズルズルズル泣きながら移動。みたことのない動きと泣き方に焦って、とりあえず夫に電話して、救急車を呼ぶか相談、とりあえず急患医療センター行けばとのことで、そうだねと、娘を抱きかかえて外にでると、発作のようなものはケロっとおさまって、涼しい顔になった。

でもまた夜中に同じようなことになると怖いので、いちおう車で医療センターに行ったのだけど、着いてもケロっとしていて、診断でもなんでもなく、ケロっとしたまま帰宅した。

寝かしつけ中に、程度は小さいけれど、同じような動きと泣き方があったのだが、外に出るとまたケロっとして、布団に戻って少ししたら寝た。お尻の汗疹がひどかったから、それが痒かったのかもしれない。お尻がかゆいかゆいかゆいかゆい~~~~~~、で尺取り虫になるかもしれないと想像。

以前に小児科でだしてもらった、弱いステロイドの配合されたワセリンを塗ったら、汗疹は一晩で治った。

 

8月23日(金)

朝、娘を抱きかかえて移動させていたら、私の顔を両手で包んで左を向かせて、右ほっぺに「チュウー」っとしてくれた。わーわーわーチュウだ~~~と思って、嬉しい~と顔を覗き込んだら、一瞬不機嫌に、チガウ~みたいな感じになってから、今度はわたしの顔を右に向かせて、また左ほっぺにチュウーっとしてくれた。

ほっぺを包む手つきの優しさとか、ちょっと不器用な感じとか、すべてが完璧だった。なんて完璧なことをする娘なんだ!わたしも娘にはよくチューっとするけど、もっと力任せというか、意の向くままというか、衝動的というか、ブチューってかんじで、あんな優しいかんじじゃあない。とてもイケメンな仕草だった。壁ドンなんてされたことないけど、たぶんそういうものに匹敵する、実際されたことはないけどドラマとか少女漫画の中にはあるやつ。実際あるんだなあっていうやつ。たまらない。

そしてやっと保育園に行けた。長すぎる盆休みだった。

休みの間にも色々できることが増えた。「だっこ」と言えるようになった。「っこ」と言いながら両手を伸ばしてくるのが抱っこしてほしい表現。しかし今後、抱っこでいいときと、歩かせた方がいいときと、どういうふうに選別していくんだろうか。

 

8月24日(土)

わたしは育児については事前に情報収拾して、子どもがどういう発達段階にあって、今何ができて何ができないのか知っておいて、そうして日々に対処していきたいと思っているので、わりと育児書はたくさん読んでいて、今のところそれで情報に振り回されて辛くなったということなどはなく、たくさん読むとどれも芯で言ってることは同じ、大事なことの核は同じ、ということがわかってきたりして有用よなと思うのだが、そして今どこらへんにいるかってわかると楽だよねと友人と言い合ったり、昨日もしたし、だいたいこの時期にはこういうことをやりたがる、と本などにあったとおりのことを娘がやると、わーほんとだ〜と面白くなって、本通りじゃないだろうと思ってるのが前提にたぶんあるから、その通りのことがあると面白かったりして、そして成長とか発達とかって面白いものだなあと思うのだが、そういう本なしで、めちゃくちゃぴったりくる本に出会ったからこそ先取りして読まずに、実際に子どもと過ごす中で知ることを、誰かから教えてもらうのではなく、自分で「発見」したい、というライターさんの文章を読んで、なるほどなあと、そういう考え方もあるのかと、それは確かに素敵だなと、そういうふうに考えられるのってすごいなと思った。

かといってわたしもそうしよう、とはならなくて、なんかやっぱり興味があって、読んでしまう、育児の本。育児の本というか、脳科学とか、うまみとアスペルギスオリゼとか、発酵とか、人と細菌とかも育児に関わっていくものとしてあったりして、ただどう育てるかだけではないのだが、でも教育方法とかにも興味はとてもある。

読んだ方が、知っているほうが、想像力が膨らみ、細部まで見えてくる、と思う。そしてどんなに読んでいても、本から得るものを上回る発見がある、という実体験への信頼もある。どんなに読んでいたって大丈夫。そうそう。それで育児の醍醐味が侵食されるかんじはなくて、むしろわからないこと、不思議、センスオブワンダーが増えていって、いつもみているもの、いわゆる日常がいきいきとみずみずしく感じられたりもして、むしろそういうふうに定期的に水やりみたいなのをしないと潤いがなくなってヘタってしまう、定期的に新たなものの見方を補ってないと倦んでしまう、わたしはそういうタイプなんだよな。

昨日はほとんど出てなかった子どもの鼻水がまた復活してるので、新しいウィルスと戦ってるのかもということで、出掛けず家で過ごす。子どもってすぐに風邪引くけど、全く家から出ないで過ごすのってそれこそこちらが倦まないようにしないといけない。

一緒に遊ぶのは楽しいけど、ずうっと同じことをし続けるのは、繰り返しにつきあうのは、地味にきつい。時間の密度が、たとえば1分間に見えているものの量、学べるものの量、新たに出会えるものの量が大人と子どもでは全然違いそう。

子どもの頃の1年間て長かったけど、密度が全然違うんだと子どもを見ていると思う。客観的な世界としての時間は同じ1年でも、個体として生きてる時間は実際に10倍とかそれ以上にありそうで、感じ方が違う、といったらそういうことになるのかもしれないけど、もっと実際的な量のところで違う、科学的に証明できそうな次元で生きている時間が違う、という感じがする。

子どもの遊びにつきあうことは身体的には普段の10倍くらいの機動力を要請されて(まだ1歳半だからまあそこまできついことは実際はないけど)、精神的には10倍くらいに薄めた間延びした時間を過ごさせられるようなところがあって、もちろん日々発見もあるし、子どもが色々できるようになっていくのを見るのも楽しいし、一緒に絵本読んだりするのも楽しいんだけど、でもなにかこう、疲れるんだけどすごく暇、という感覚になることがよくあって、床に座っておままごとにつきあったりしているとけっこう眠くなる。

積み木で何かつくったりクレヨンで描いたりするのは楽しい。まだ一緒にはできないから各々で、ただ積み木はこちらがつくったものは必ず壊しにくるから、大人気なくイライラさせられたりもするが。

クレヨンはほぼ毎日描く時間があり、はじめはヒョロヒョロした線だったのが、わたしに何か描けと要求してきて、それでグリグリ力を入れて強めの線を描いてみせたらその日からけっこう力強い線が描けるようになって、そのあともお手本を描いてくれよと要求してくるかんじがあって、真似して新たな方法を身につけようとしているようなのが、頭いいなあと感心する。

最近は、こちらが言った言葉というか、音を、そのまま口に出すこともできつつある。目を描いて「目」というと、め、と言ったり。「落ちた」をきいて、おちた、と言ったり。「青」に、あお、とか。

目の前に示されたものや起きたことと、こちらが発する音が、対応していることを理解している様子。

だからもうほとんど言葉の意味はわかっていそうで、話が通じる、だからといって言われた通りに自分を律して動けるわけではないけど、伝わっているようなので、ヘタな話はできないし、言葉で伝える前に勝手に着替えさせ始めるとか、こちらのスケジュールで淡々とすすめていくのがもうダメなかんじ、ぜんぶ行為の前に了解をとりつける必要性が出てきたかんじがある。

夕方、家から出ないことに耐えられなくなったのかまた泣きながらのアオムシ活動が始まり、外に出ると治ったので、少しだけ外で遊んだ。

もしかしてあの一昨日の大泣き、前に胃腸炎の終わりかけにもあったあの大泣きとのたうちまわりは、ずっと室内にいることに耐えられないというストレスからくる、なにかの発作にみまごうほどの大爆発なのかもしれない。

 

8月25日(日)

朝起きて、するとすぐに娘も目を覚まして、目と目が合って、おはようと言うとニコっとして、嬉しそうにこちらに近づいてくる、その嬉しそうな顔といったら、それだけで心があったかくなるのだが、私に向かってくる途中で夫がおはよ〜とニョキっと顔を出すと、とたんに怪訝な顔になって、邪魔者はあっちに行けと言わんばかりの冷め方は鮮やかすぎるほどだった。

夫が顔を近づけると手で追い払い、抱っこしようとすると嫌がる。一方わたしには、こてんと身体を預けてくる。気の毒になるほど、あからさまに違う。

同性であっても幼い子どもとの母子関係というのは恋人に似て、父親は邪魔者なのかもしれない。わたしと娘の間にある結びつきはほんと、目と目で愛を語るみたいな、恋人同士のよう。同性であっても子どもは小さな恋人だなー。

午前中は図書館、午後は買い物に行って過ごした。ベビーカーを押していくスーパーへの行き帰り、私がうたう歌にあわせて、娘もうたったり、踊ったりしていた。すっかり秋めいた日差しのなかの、恩寵に満ちた時間だった。