恋と切なさの起源

 

子どもが、赤ちゃんが、圧倒的にかわいい。好きでたまらない。こんなにかわいいものだとは思っていなかった。正直これまで、赤ちゃんをこんなにかわいいと思ったことがなかった。幼児でも、小学生でも、中学生でも、親戚のでも友達のでも、子どもはかわいくて面白いと思っていたけど、赤ちゃんは繊細そうすぎて、どう接していいかわからない存在で、だから出産する前はおそれの方が強くて、赤ちゃん期が早く過ぎたらいいなとか、動物みたいに生まれたその日から一人で歩けるくらいまで成長して生まれてきたらいいのになとか、思ったりしていた。

しかし生んでみたらこれが、驚くほどに、かわいい。生まれて5ヶ月、生んだ直後よりも、時間を過ごすにつれて、どんどんかわいく、どんどん好きになっている。ずっと一緒にいるけど、全然飽きない。飽きないどころか、今日のこの、寝転がって手足をばたばたしている赤ちゃんの娘は来年はもういない、来年はもう違う姿と思うと、切なくて泣いてしまう。

座ってだっこしてるときに、腕をつっぱって後ろを振り向いて何かみるときの、力の入った肩のライン。内側にきゅっともりあがるほっぺた。ちぎりパンみたいな腕。うつぶせで動こうとバタバタするけど宙をかいてる足。真夜中に起きてうんうん言いながら頭をもたげてること。来年はもうこれ全部ないんだろうと思うと本当に切ない。

仰向けになって、くるくる目を動かして何かみていて、目があうと、本当に嬉しそうに笑う。笑いかけると笑うから、何度も繰り返す。ほっぺにほっぺをくっつけて、おでこにおでこをくっつけて、鼻と鼻をくっつけて、するとまた、きゃはきゃは笑う。ほっぺにちゅっとする。また笑う。お腹にちゅっとする。また笑う。指でトントンすると、にっこりするけど、ちゅっとするほうが、良く笑う。猫みたいに首のところにくにゃんくにゃん顔を近づけると、また笑う。抱っこすると私の腕をペロペロ舐める。

まだ言葉の話せない娘とのコミニケーションはとても動物的で、でも通じ合えるものがあること、全然知らなかった。身体の動きで、表情で、泣き声で、伝えあえるものがたくさんあって、なんだかそれが、とてもいい。私たちは毎日、くにゃくにゃ、ちゅっちゅちゅっちゅとじゃれている。そしてまだ動物的であるところの娘はたまらなくかわいい。

けれどもたしか、お腹のくすぐりは嫌がられる時期がくる。こんな恋人みたいないちゃいちゃは、きっととても短い期間のものだ。きっと抱っこの期間だってあっという間に過ぎてしまう。

子どもの成長はすごく早い。一月前と今が違うことが目に見えてわかる。成長していくことはもちろん何よりの歓びで、いつか離れていくこと、離れても大丈夫な人に育てることが子育てなわけだけど、わかっていても、変化しないものはないこと、そのことを突きつけられるようで、切ない。

ずっと赤ちゃんのままでいてほしいなんて思わないけど、成長してほしいけど、赤ちゃんの娘がいなくなってしまうことが切ない。こんなに好きなのに、かわいいのに、このかわいさはいつか必ず失われる、もちろん関係はずっと続いて、そのときそのときが最高であってほしいけどでも、私と私の母との距離やそれぞれの存在の大きさは、私たちは仲がいいけれども、今の私と娘とのそれとは、やっぱり全然違う。その時は急にくるわけじゃなくて、思春期の娘、自立したあとの娘との関係だって楽しみだし、その時がきても大丈夫なことも私はわかっているけれど、でも考えると切ないのだ。

娘の認識している世界の、かなり多くの部分を私が負っている、その責任はもちろん大変重いけれども、そのことが私にもたらしてくれるこころが満たされる感じ、愛おしさも、ものすごく大きい。けれどその時期はいつか去っていく。それが正常なことだから。いつか終わりのくる蜜月。どうあっても平等にはならない、志向性のある愛情。正直、親がこんなに子どもを好きなんだということ、親になるまでわからなかった。小さいうちは子どもにとっての世界の多くは親だけれど、成長とともに、その割合は減っていく。でも親はたぶんずっと変わらず、子どものことが好きだ。結ばれない恋に感じる切なさの起源は、実は子育てにあるんじゃないだろうか。

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夕方散歩に出掛ける。川沿いの土手の上にはコンクリートの道があって、広くて平坦でほとんど誰も歩いていないので散歩にもってこいで、今日は風が強くて空の動きがダイナミックで、雪の溶けた立山連峰がきれいに見えて、その一部には雲がかかって、雨が降っているんだろう、もやで見えなくなっていて、その少し先には陽が当たって山肌が立体的に見えていて、つまりきれいだった。ベビーカーを押しながらふと、回転してみたらどうかなと思って、くるりくるりと回ると、きゃはーと喜ぶ娘。嬉しい。腕をのばす、近づける、伸ばす、近づける。顔が遠ざかる、近づく、遠ざかる、近づく。繰り返すと、近づくときに、きゃはーと喜ぶ娘。

夜になって娘が寝た後で、娘をベビーカーに乗せて走って、娘がきゃはーと喜んだことを思い出した。それはずいぶんとキラキラしたもので、私たちは光に包まれているような、しゃぼん玉みたいな光を反射する球が私たちを取り囲むような、記憶の中にある娘とベビーカーと道と空と山はとにかくキラキラしていて、娘の笑顔と笑い声と走ったり止まったりする速度は光を発していて、これってまるきり恋する二人の思い出じゃないかと思う。海辺でじゃれあって水をかけあって波が寄せては返してきゃはきゃは笑い合う、そういうやつ。

娘への想いは恋みたいだ。と思っていたら、どうやら逆らしい。生物学的には、親子間の愛情が先にあったもので、恋愛感情というのは、そこから派生してきたものだとか。現代の固体の時間のなかでは恋のほうが先にくるけど、人間全体としてはそうではないらしい。

愛おしさも切なさも、起源は親子間にあるのでは、という感覚は、あながち、間違っていないような気がする。その起源にあるものがこれまで、私まで、娘まで、命を繋いできた。