痛み待ち

 

夫が在宅で仕事できるように調整してこちらに来ていた一週間、その最終日だった予定日が過ぎて、夫は札幌に帰り、私は超過一日目の妊婦健診に行った。知人友人には初産は遅れたという人が多くて、なかには10日遅れだったという人もいるので、あまり焦ってはいないのだが、NSTという胎児心音と子宮収縮をはかるテストで全然お腹の張りがきていなかったことと、羊水が減りつつあったことと、どうも子宮口が固くてこのまま陣痛が来たとしても赤ちゃんが苦しむ、軟産道強靭かもしれないというようなことで、昨日は陣痛促進剤を飲んで、子宮収縮をおこしてそれに赤ちゃんが耐えられるかチェックしつつ、子宮口を柔らかくするという措置をとることになった。

お腹の子に、お父さんのいる間に出てこよう的な語りかけはしつつ、とはいえ私の器官が固すぎるってこともあるよね、とは薄々思っていた。赤ちゃんの出たいタイミングとは言うけれど、あまりにも私の器官が固くて、気持ち的に出ていきたいのは山々だけどどうにもならんよってこともあるんじゃないかと。胎児にはまだ解明されていない特別な能力があるという説があって、それはそういうことはあると思うし、そのなかにはもしかしたら、母体にあるホルモンを分泌させる力があって、それが子宮収縮に関わる、といようなことがいつか発見されるかもしれない(このあたりは医療的な知識は全然ないからなんとなくの想像でしかない)、でもそれでも、やってみたけど固くてどうにもならないよってこともあると思う。

もちろん、こちらの言うことは全然気にしないっていう子かもしれないし、それはそれでいいなあと思うし、そもそも全然通じてないかもしれないし、嫌がってるかもしれないし、意味ないのかもしれないし、別の事情があるのかもしれないし、もうほんとうにこういうのは結局のところはわからない。

何をしても、ままらないことは、ままならない。逆に何もしなくてもするっといくこともある。

散歩してるおかげで筋肉はわかりやすくついていて、一昨日は5キロを1時間で歩いていた。産院まで1時間かかっていたのは45分。でも子宮は柔らかくならない。ほんと、身体って一番身近な自然で、自分でもわからないものだ。あとやっぱり、二十代の出産とは違うんだろうなとも思う。

お腹の子どもとコミニケーションをはかるとか、散歩をするとかスクワットをするとか、いずれも出産して終わりではなくて、その後の子どもとの生活や自分の体力のためにやって悪いことではないから、たとえ出産自体が思ったのと違うものになっても、それはそれで全然いい。とにかくただ無事に出てきてほしい。

昨日は半日入院して、1時間に1錠の薬を飲んで、子宮収縮と胎児心音、それぞれの様子をみるというのを5錠分やった。約5時間、ずっと赤ちゃんの心音をきいているのがけっこう堪えた。たまに早くなったり、大きくなったり、弱くなったり、大人のそれよりも基本的にずっと早い心臓の音をずっと聞き続けるのは、生命力を感じるよりも音の弱りや早鳴りのほうに気がいって、場合によってはこれが止まることもある、それを受け入れないといけない事態だって有りうるんだということのほうが、リアルに感じられた。

心音が弱くなって、助産師と看護婦が「帝王切開か」と殺気立った一瞬もあって、それはちょっとした勘違いのようだったけれど、ここまで順調にきたからといって最後の最後まで何があるかはわからないということ、言葉では理解していたけど、実感が伴った。

横になっていたのは陣痛室だったので、隣接している分娩室の妊婦さんの絶叫も聞いた。それはもう大変なものだった。話に聞くのと実際に聞くのとでは全然違った。あんな叫び声で人が叫ぶのを初めて聞いた。本当に心から辛いというのが伝わってくる声だった。絶叫というか、悲鳴。出産シーンというと思い浮かぶのは時代劇や古い映画で、そこでの妊婦は悲鳴というより踏ん張る、いきむための、うーん、ふーっという声を出していたように思うけど、昨日の妊婦さんのそれはただただ痛いんだ〜〜〜という悲鳴だった。ほんとうにほんとうにほんとうに痛いんだ、と思った。

家で話すと、母はそんな悲鳴はあげなかった、という。父も、うちのお母さんはそうではなかったよ、といって、どこか訝しげだった。忍耐強さは人それぞれ、痛みの強度も人それぞれ、世の中が便利になるのにしたがって体力筋力が落ちてる、全部あるだろうけど、にしても、だとしても、その人にとってその痛みがほんとうに痛いということが重要なことで、出産がそういうものだっていうこと、もっともっと知られて欲しいと思った。あの声を聞いたら、忍耐がないなんて思えない。そこに物凄い痛みがあるんだっていうことをただただ感じるだけだと思う。

出産を扱う医療ドラマは、出産の大変さを伝えるけど、トラブルも何もない、安産といえるお産でもものすごく痛いという、日常的な(?)お産のことを伝えるものとは違う気がする。出来事はドラマ性を帯びるとどこか自分からは離れたものになって、実際そうなることはあるんだけど、どこか自分はそうはならないだろうということに思える。それよりもあの声だ。

多くの人があの声をきいたら。世論は、無痛分娩を主流にすれば、となるかもしれない。でも無痛分娩には無痛分娩のリスクもあって、それによって出産自体、人の身体自体が変わるわけじゃない。そういう人のお産のことをもっと知られて欲しい、それでどうして欲しいのかっていうのはわからないけど、なんかとにかく、ドラマでみるのとも人から話を聞くのとも違うのだ、あの声がもたらす実感は。病気や怪我じゃないことで、あんなに痛そうなことなんて、他にないだろう。なんてことだ。生命を生み出す、命を繋いでいく基本があんなに大変な「人」ってなんなんだろう。

たぶん楽なお産なんてない。自然分娩、普通分娩、無痛分娩、帝王切開、それぞれにそれぞれのリスクがあって、大変さがあって、覚悟がある。でもその大変さが人を人にしている、というのは確実にある、というところでまたぐるぐる。

先週の夫と過ごした一週間は痛みを待つ一週間だった。ちょっとした張り、痛みにも敏感になって、これが前駆陣痛だとして、本陣痛にそのまま繋がればいいなあ、と何度も思った。結果陣痛は来なかったけど、お腹の子と夫と三人でゆっくり過ごしたのはとても良い時間になった。お腹の子に夫婦で色んなことを話しかけて、歌をうたって、近所の色んな場所に散歩に行って、産院への往復も一緒に歩いて、洗濯物を干すのも庭のある一軒家だとマンションでやるそれよりも楽しくて、夕飯も一緒につくって。結婚してから、というかその前からも含めて、一番ゆったりと一緒に過ごした時間で、それはお腹の子どもがくれた贈り物みたいだった。

それからの昨日。ひとまず子宮口は少し柔らかくなって、陣痛が起きるのを待つコンディションが整ったのかどうなのか、また明日も健診に行くのだけど、私は引きつづき痛みがくるのを待っている。痛みがくるのを緊張とともに、いってみれば心待ちにしている。こんな機会も、出産以外にはなさそうだ。