ブチハイエナの難産

 

出産は痛いという。その痛みを表現するいろんな喩えがある。有名なのが鼻からスイカ。ただ周りで普通分娩(ここでは病院での麻酔を使わない経膣分娩、という意味でつかう)で産んだ人は、ずっと痛みが続くわけじゃないから耐えられる、という。私もまあ大丈夫だろうと思っていて、普通分娩で産む予定でいる。身体の持っている力を体感してみたい好奇心と、それができるように体重に気をつけたり運動して体力をつけたり多少の怖れを持って準備しておくほうが長い目でみて身体にいいことになるのではというのと、シンプルなのがいいというのと。ただ絶対に自然じゃなきゃ嫌だというのは全然なくて、何かあったらすぐに医療の力を借りたいし、とにかく優先するのは自分と子どもの命と健康だと思っている。

出産を登山のようなものとすると、自分がどこにいてゴールまであとどれくらいなのかわからないのと、全体の行程と立ち位置を把握しているのでは、疲れ方、気力の維持でき方が違うはずなので、分娩の工程をなんどもおさらいして、イメージトレーニングをしたりする。陣痛が痛いのは子宮が収縮して子を送り出そうとするかららしい。今のところ、子を送り出すべくどうしたらいいか私よりずっとよく知っている子宮と、同じく出かたを知っていて出てくる子と、動き方については彼らにほぼお任せでいつつ、動きやすいように身体の緊張をほぐして酸素を送り込んで、必要に応じてその動きを応援する私の三者がいて、陣痛の痛みは押し出すためのエネルギーの波みたいなもので、波が固まってる出口を開いて、それにのって子も外に出ようと頑張る、場が整ったら私も力をいれて子を応援するという、私はその波を邪魔しないマネージャーみたいな、主役は子宮と子どもで私はその場をつくるイベントプロデューサーみたいなイメージを作った。そううまくいくかはわからないけど、大枠はこういうイメージでいってみようと思う。エネルギーの波、主役は子宮と子ども、私はそれぞれの働きが最大限になるようにする人。一緒にがんばろうね、皆。というかんじ。

痛みじゃなくて、エネルギーの波と思うのは良さそうな気がするけど、ただそれは良い方向へのマインドコントロールで、事実痛いのは痛いはず。どうして出産という、生き物として普遍的な行為がそんなに痛いんだろう。そして人の初産の分娩所要時間の平均は15時間という。長い。

痛いということは、その何かをすることがすごく大変、ということだろう。出産は痛くて大変なんだというより、すごく大変なことだから痛いんだろうと思う。

なんでそんなに大変なのかというと、人に進化する過程でそうなってしまったらしい。直立二足歩行のために骨盤が狭くなり、産道にも独特なカーブができた。直立二足歩行のため脳が大きくなって、胎児の頭も大きいので出てくるのが大変になった。他の哺乳類は人ほど出産に苦労しない、というのをよく見るが、完全にそう言い切れるのかはわからないけど、ただ人の出産は哺乳類の中で大変な方ではあるようだ。

人の場合、人が人になった、知性を獲得する進化が、一方で出産を大変な行為にした。だったら逆に、その知性を活かした、体力の消耗が少ないとされる無痛分娩は人間らしいやり方なのかなと思ったりする。生じたマイナスを得た能力でゼロに戻してるというか。私は普通分娩の痛みよりも、無痛分娩を試みてそれが上手くいかず混乱のうちによくわからずことが進んでいくとか、複雑なことに付随するリスクのほうが怖い気がして、そちらに関してはほとんど詳しく調べなかったけれど、もし次があるならば、無痛分娩もやってみたいかもしれない。ただまず一度産んでみないとそこはわからない。

ところで、なぜ人の出産はそんなに大変なのかなと思いながらネットを見ていたら、ブチハイエナの出産について日本科学未来館の人が書いたブログを見つけて、読んで驚愕した。

http://blog.miraikan.jst.go.jp/other/20150423post-585.html

要約すると、ブチハイエナのメスにはオスの性器にそっくりの擬陰茎というのがある。交尾の際にはそれを筋肉で引っ込めて一時的な膣にする。ということは交尾の主導権は完全にメスにある。擬陰茎には尿道も通っている。さらに、これが信じられないのだけど、擬陰茎は産道も兼ねる。

穴じゃなくて棒から子どもが出てくるなんて痛そうすぎる。それはやはり大変なもののようで、ブログの記事によれば、初産の仔の6割が死産になり、母親もその時の傷が原因で2割が死に至り、そうでなくても割けた傷跡が残るので、出産を経るとオスとメスの見分けができるようになるらしい。自然界は人の感情とは別の次元にあるものと思っても、文字にするのが辛い。

人の出産は大変なもので、でもそれ以上に大変な動物がいることを知った。なんでそんなことに、という疑問に対しての答えに、完全に納得できるような合理的な意味はなさそうに思う。自然の仕組みは精巧でなんてうまくできているんだということがあるのと同じくらい、意味なく、また仕方なくそうなってしまったこともたくさんあるんじゃないだろうか。進化とは、ただそういうふうになる潜在的に隠れていたものが形になっていくこと、だという。進化している=良くなっている、ということでは必ずしもない。

たぶん世界に、ものごとの仕組みに、人が求めるような明快で完全な意味はないと思う。でも私は子どもが生まれたら、自分が生きている意味を、凄く感じるだろう予感がある。