ヒトと人のこと、ぐるぐる

 

直立二足歩行と脳の拡大が人のお産を大変なものにしたということについて、ひきつづき。

ヒトの産道は独特なカーブを描いているため抜けるのが大変らしいが、そうなってないと逆に、直立二足歩行の生活だと重力が下にかかってるから、すんっと出やすい形だったら危ないよな、とふと思う。

妊娠して胎児がある程度まで育つと、今度は「早産」という、外界に出て充分に生きられる機能が整っていないのに生まれてしまう事態が心配事として出てくる。だから妊婦はもう子どもが出てきても大丈夫という期間に入るまで、出てこないで、出てこないで、と思って過ごすわけだけど、それも直立二足歩行も関係してそうだなあと思う。

早産が危ぶまれると、家で横になって安静にしているように、もしくは入院が要請される。妊婦は歩け歩けと聞くのに、逆のことが必要なのはなんでと途中まで思っていたけど、助産師がいうに、歩くと他の器官に血液がまわるのを横になることで子宮に集中させるというのがあって、なるほどと思った。あとやっぱり立って動いたら重力が下にかかって子どもが下に下がるっていうのもあるんじゃないかな。逆に早産が危ぶまれていない妊婦は、体力をつけたほうがいいのと、正産期に入ったら出てきてほしいのでいっそう、歩くことが推奨される。

で、子宮はもう大丈夫だよとなるまで、後に開く出口を固く閉じて、重力に抗って子どもが下に落ちないようにしているんだから、それを開くための、そして子どもを押し出すためのエネルギーは大変なものだというのも、納得できる気がする。子どもが出てくるとき、子宮の出口は10センチまで開くらしい。子宮は不随意筋という意志で動かせない筋肉だ。それが閉じてるのを開く、また子どもを押し出すのに規則的な収縮を繰り返すのが陣痛らしいけど、そりゃ痛いだろうなあと思う。閉じてた内臓が10センチも開くのだから。

四つ足で歩いていれば、子宮が胃や腸を圧迫することも、重くなるお腹が腰に負担をかけることもなさそうなので、妊娠中のマイナートラブルの多くも、直立二足歩行のせいなのでは、という気がしてきてしまう。わからないけど。

人も動物の一部だなと思いながら散歩していて、途中ショッピングモールにさしかかり、近道のためにその中を抜けた。とにかくたくさんの人が歩いているのを見た。犬を連れている人もいた。繋がれて飼い主を待っている犬もいた。やっぱり、人と動物って違うと思った。まず人は服を着ている。いろんな服がある。毛むくじゃらじゃない。直立二足歩行で立って歩いているのが、なんていうか、スタイリッシュというか、格好いい。しゅっとしてる。いや、犬は犬で格好いいし、馬とかトナカイとか、動物も格好いいんだけども、ヒトには人の洗練がある。やっぱりまっすぐ二本足で立ってスタスタ歩けるのって格好いい。知性を感じる。

で、人は直立二足歩行と脳の拡大によって知性を手に入れたのだから、出産の痛みや大変さをその知性で補うのが人らしいやり方なのかなと思ったんだけど、完全にそこに頼ってしまうのは危険なことではあるらしい。テクノロジーが可能にする経膣分娩ではないやり方やその痛みをとるやり方だけを選択し続けると、痛みを伴う経膣分娩が無理な身体の構造に進化する可能性があり、そこで依存するテクノロジーに不都合が生じたら、一番根本的な生む、という行為ができなくなって、人が絶えてしまう、とか。

だから私は普通分娩を選びます、という考えではなくて、好奇心によるところが一番で、それでも何が起きるかはわからないから帝王切開という方法があることは有難い。今回もどうしても子宮口が開かないとか、子どもの顎とか肩とかひっかかってるとか、へその緒が絡まってるとかの諸々で、分娩途中で帝王切開になる可能性はある。次の出産があるとしてその時には無痛分娩じゃないと産めないという事情が生じているかもしれない。そういう選択肢があることも有難いことだと思う。私が無事で、子どもも無事に生まれてくることができれば、最終的には産み方はどうでもいい。一方で自然分娩で家で立ってするっと産んだ、という人もいる。そういう体験談を聞くと、それでもできるんだ、と認識が広がるし、励まされるので、そういう人がいるのもいいなと思う。

ヒトが人になった、知性獲得のための代償は万が一の際の医療介入で補うところまで、基本はシンプルに、身体の持ってる力をできるだけ活かしたい、知りたい、というのが私の志向ではある。でも自然に任せておけば大丈夫なんだ、なのに医療に頼ることで大事な能力が失われている、医療は悪、みたいな話は違う気がする。人工の技術が発達することで失われたしまった力、感覚、そういうものはいくらでもあるのだろうけれど、自然がいいというのは、弱い個体は死んでも仕方ない、ということを全面的に受け入れることでもある。でも人はそうではない方向で、放っておいたら死んでしまう命も生かす方法を考えて生み出して、皆で助け合って生きていくことを選択している。そこで出産だけ完全に自然なのがベスト、ということはない。人の出産はほおっておいたらけっこう、命の危機にさらされる可能性の高い、特殊な生理的現象だという。だから自然か、人工か、というのは簡単にシロクロつけられるものじゃなくて、人の出産はその間にある色んな可能性といろんな選択の組み合わされたそれぞれのもので、病院の都合で薬を使われたり、機械的に扱われたりするのは嫌だけど、それは自然対人工っていう図式のものではなくて、そこに携わる人の感性とか技術の使い方とかの問題であって、人工が悪なわけじゃない。

痛みに価値があるとも思わない。進化の副産物、という以上の意味はないんだろうと思う。ヒトの出産はそうなってしまった、というだけ。ただそうなっている、そういうふうにできている仕組み、身体への畏敬の気持ちはどこまでもあって、私はそれを知りたいし、痛みに意味はなくてもその仕組みはなんだか凄いことで、尊いように思うけど、でもお腹を痛めた子だからかわいい、苦労したから大事にするというのは、苦労したことに何か意味を見出そうとする認知のすりかえというか、関係ないものを結びつける何かが起きている気がする。動物としての出産は必ずしも痛くなくていいのだ。そして出産に伴う苦労と子どものかわいさ、大事さって、ほぼ関係ないのでは。苦労しなかったら大事じゃないなら、世の父親の愛情は母親のそれよりおしなべて薄く軽いものになってしまうけど、そんなことない。

なんだかんだ、人全体のことを考えても、そんなテクノロジーに警鐘をみたいな気にはならなくて、大丈夫だと思う。地球上の人の全てがテクノロジーに頼った産み方しかしない、ということにはならないだろう。もしもそうなっても、その技術が使えなくなったなら、眠っている身体の機能が戻ってきて、忘れていたやり方ができるんじゃないだろうか。人は人だけど、ヒトっていう動物でもあって、自然の一部でもあって、それは人が考えるよりしぶとくて、ヤワじゃないような気がする。

 

参考文献:岩波科学ライブラリー197  ヒトはなぜ難産なのか  奈良貴史