見えないものと生きている2 タイムトラベル環境破壊

 

タイムマシンのパラドクス、というのがある。タイムマシンで過去にいって自分が生まれる前に自分の親を殺したら自分は生まれないことになって、そうすると親を殺せる人もいなくなるのだから自分は生まれることになって、そしてまた親は殺される、それが堂々巡りになる、そういうことになってしまうから時間旅行は不可能だ、というやつだ。

ただ時間旅行について考えると、私はこのパラドクス以前の設定がまず飲み込めない。というのが、過去が空間として並行世界的に存在していると思えない。時間というより、場所として、ないように思う。前にむかって時間が流れている、いまここの世界は、ひとつだと思っている。私の行ったことのない場所はもちろんあって、わたしはアフリカでライオンが走っているのを見たことはないけど、でもライオンがいることを知っているし、信じている。目に見えない酵母が葡萄をワインにすることを知っている。自分で酵母という存在を見つけだしたわけではなくて、酵母のことを見てもいない、酵母自体は目に見えない、だからそれはただ知っているだけじゃないどこか信じるということが含まれる気がするけど、知っているし信じている。

自分が見ている世界と、あなたが見ている世界と、猫が見ている世界と、犬が見ている世界と、見ているだけじゃない感じてる、生きている世界は、その個体の感覚のレベルでは個体に応じて全部違うのだけど、それらが一緒に生きている世界という場は、ひとつだ。木の紅葉に気づく気づかない、料理の味のちょっとした変化に気づく気づかない、そういう小さな違いの集積した「生きられる」世界は人の数だけあるし、感覚というのは私たちの生活の必要に応じて与えられているから、猫が感知できる光と人間が感知できる光は違うとか、環世界の動物間の違いもいくらでもあるのだから、生きられる世界は生物の数だけある、ただその大本になっている場はひとつで、みんな前に向かって流れる時間の中で、一緒に生きている。

そして、意識せずとも、私のとる一つ一つの行為は、他の何かに必ず影響を及ぼすし、逆もしかりだ。例えば、昨日電車で妊婦ということで席を譲ってもらった。そのときに私はよく御礼を言ったけど、その時の私の態度如何で譲ってくれたおばさんの一日の気分はけっこう違ってくるはずだし、譲ってくれる人が誰もいなかったら私はなんだかなと思って、何かしらその電車なり路線なりについてのイメージを心にのこす気がする。それがまた何か判断するときにぬっと現われて、自分の行動に影響をもったりする。そういう小さいことの積み重ねがいくらでもある。

目に見えている範囲だけ、単純な人対人のやりとりでもそうなのであって、これが目に見えていない小さな生き物も含めてのお互いの影響の及ぼし合いといったら、それはもう、このひとつの世界という場に含まれている情報の量、複雑さって、ほんとうに目眩がするようなものだと思う。

だから、ひとつの行為は小さいものでも、親を殺すなんて大それたことじゃなくても、駅までの道が二通りあって、右をいくか左をいくか、結局駅に着くのだとしても、その選択の違いは自分以外の何かに対して微量な影響を及ぼすはずで、ほんとうにちょっとしたことであっても、「過去に行く」ということができてしまったら、その時点で「現在」は今のそれと違うものになると思う。

そうしたら、過去に行った私は、どこに戻ればいいんだろう。少しだけ違った「現在」だろうか。これが時間旅行をするのが私一人なら、ちょっとした違いは誤差の範囲で過ぎていくのかもしれないけど、そうは思えなくて、そうすると過去も未来も時間旅行された分だけ無数に存在していくような、どこまでも平行世界がありつづけるようなことになって、みんなで生きているひとつの場、という世界の根底が崩れて、世界の全てが一変して、身体の仕組みも言語の論理もすべて入れ替わることになるような気がする。そしてそんなことにすぐには適応できないから、たくさんの生き物が死ぬんじゃないだろうか。

地球の歴史のなかで、たくさんの酸素が発生した時代、当時の多くの生物にとって酸素は毒で、多くの生物が死んだけれど、そこから酸素をエネルギーとする大型の生物も生まれてきた、という時代があったと思うのだけど、時間を戻ったり先にいったりというのは、その酸素の発生と同じくらい、もしくはそれより大きなインパクトを及ぼすことなんじゃないだろうか。