鰤のアラが重い

 

去年は大根がたくさんとれたので、ブリ大根を何度も作った。切り身で脂ののったものになかなか当たらなかったので、アラを買ってみた。アラには、食べようと思えば食べられるのだろうけど、しかしこれ食べるんだろうか、と逡巡させる部位がけっこうあって、目の周りのぶよぶよしたゼラチン質ぽいものとか、内臓以上肉未満みたいな白い弾力のあるものとか、食べながらひとつひとつのパーツに気を取られた。

札幌はさすが北海道、魚が美味しくて、スーパーでも切り身ではなくて丸のまま売っていることが関東よりずっと多い。そういう魚がずらっと揃うスーパーもある。そのほうが美味しいので、丸のまま買うことが前よりずっと増えたのだが、それを家で捌くことはほぼなくて、その場で内臓なり頭なりは落としてもらってから買う。丸ごと売っている場所には、それをやってくれる人がいる。始めは自分でやっていて、内臓の仕組み、魚の身体がわかったりするのは面白かったのだけど、血まみれになるまな板(牛乳パックの上で切るといいといっても常に空いたパックがあるわけではないし)、内臓のゴミのこと、そして捌くという一手間がどうも億劫になって魚の料理が面倒くさくなるということが、正直あるので、今はほとんど売り場の人にお願いしている。

なので、アラで久しぶりに魚の身以外の場所に触れて、それは食べてる時も、食べ終わって結局食べなかったぶよぶよしたものを片付けているときも、心へのインパクトというか、負荷みたいなものがあった。気持ち悪いといってしまえばそういう感情に近い、でもそうは言いたくない、それだけでもない、ただ大根の皮を剥いてスパスパ切ってるときにはない、重たいものがあった。

ビーガンの人に対して、菜食だって野菜の命を奪ってるだろ、という理屈をきくけど、それは本当に理屈でしかない、言葉の中だけの応酬、屁理屈だと思う。丸ごとの野菜を切るのと、丸ごとの魚を捌くのでは、心にくるものが全然違う。肉だったらもっと負荷は強いだろう。魚には生臭い不快な匂いもあるし、血が出るし、肉を切ってる感じがある。だから気持ち悪くてやらないということはなくて、むしろ知ってた方がいいと思っているし、狩猟、畜産からの屠殺はやったことがないけど、わたしは肉を食べているし、誰かがやっていることだから、知りたい、知っているほうがいい、自分でもできたほうがいい、とは思っているけど、ただ肉と植物は「違う」ということはすごく思う。

屠殺を生活から離れたところにおいて、だれかにやってもらっている、そこに差別があったりすることはおかしいと思うのだが、隠したい、見えない所に離していきたい感覚を人間が持つことも、わかる。そして社会はそういう方向性に進んでいる。肉は、切り身として売っていたり料理されていれば負荷なく食べられるけれど、本来は牛を、豚を、鶏を、殺すという行為とセットなのであって、そこを本気で見つめれば、できればやりたくない、見たくないのは素直な感情だと思う。

人が野生に近かった頃の、農業以前、もしくは農業が主流になりきらない社会では、狩猟や解体が生活の一部としてあったのと同時に、そこで心にかかる負荷を昇華させるシステム、つまり宗教とか信仰の力も同時に強く働いていたのだろう。たとえば動物を神様とみなして、狩るのとと同時に崇め奉り、その前で人は常に謙虚である、というような。狩りを最低限にとどめて余すところなく食べ食べないところも利用し尽くすというのは、美しいと思うけれど、人間性が優れているというような美談であるだけではなくて(おそらくそういう人のありかたに実際に触れたら私は感動すると思うのだけど)、資源が有限という前提のなかで、狩りすぎたら次がなくなるから、という合理的な判断がされていたと思う。

でも現代の社会は、そうして謙虚であることから抜け出して、ないなら生産しようぜ、作り出そうぜ、という志向性をベースにできている。そして人が生産できるもの、作り出せるものはどんどん増えているから、神様の力はなくなってはいないけれどすっかり弱くなって、それでも生死に関わる部分の生々しさ、心への負荷というのは在り続けるから、それに関わる作業は隅のほうへ追いやられて、あんまり見えないように、意識されないように、遠ざけられている。

このさき何がどうなるのかはわからないけれど、今の社会は、「作り出したい」「できるだけ殺したくない」という方向にあると思うので(それでも戦争がなくならないのは何なのかわからないけどそれはまた違う層にある何かのような気がする)、このままいくと、人は肉を食べるのをやめる、もしくは肉を植物みたいに栽培するのが一般的になるのかもしれない。肉の細胞から肉を作り出すという、今そういう研究がされていて、日本の企業が躍進しているというようなことをテレビでやっていた。もしくは屠殺はロボットがやるのか。

しかしたとえ人工肉が一般的になっても、工場生産の衣服があたりまえになった今も山にわけいって繊維を採集したり、養蚕や綿栽培をして布を作る人がいるように、狩猟をする人も、畜産業を営む人も、完全にはいなくならないだろう。そうした行為の中にある自然に対しての人の精神の在り方も、忘れてはならないものとして残るだろう、というか、遺したい。

「作り出したい」「できるだけ殺したくない」というベースにある感覚には共感せざるをえないというか、もうそういう社会を知ってしまったら資源の有限さを前提に生きるところに完全には戻れないけど、自然とともにある人の生き方やそこにあるものには、人工で固められた社会にはない美しさがあって、その美しいと思う感覚が、どちらかが全て良いとか正しいとかはないにしても、大事なことなんだというのを教えている、と私は思っている。