葛の糸づくり-1 採集からムロまで

札幌で葛(くず)布を制作している作家・渡邊志乃さんに、葛の採集からの糸づくりを習った。一日目は葛の採集、ムロづくりのためのススキの採集、茹で、ムロづくりまで。

葛はもともとは北海道には自生していなかったが、根がよく張るので土砂崩れ防止のために持ってこられたのか、物流にまざって入ってきたのか分からないが、本州からのものだから、本州のほうが生えている量は多い。木や電信柱にからみついておばけみたいになってるのをよくみる。由比ケ浜からみえる稲村ケ崎方面の斜面などくずのおばけだらけだったと思う。葛の根のデンプンは葛粉、薬用としての葛根と、そういえば、と名前を思い出す身近なものだ。

この日も葛は街中の道路脇の空き地で、その土地の所有者の方にことわって(志乃さんが置き手紙で確認してくれていた。こまるのでどんどん採ってほしいとのことらしい)採集した。

くずは先の方は柔らかく、根に向かうにつれて固くなる。固すぎず、適度なハリがあり、いっきに伸びたことがうかがえる節と節のあいだが長いものが糸にするには良いのだという。たしかに、長いものほど木質化がすすんでいて、固めだった。穂先はいいかんじだな、と辿っていくと、根っこがどこにあるのかわからないほど長いものも多い。指先で弾力をたしかめるのがたのしいというか、気持ちいい。作業していると、通りかかったおばさんに「布でも作るの」と聞かれた。そうです。

20本ほど採ってから、リースのように丸めてしばる。しばるときも、弾力を感じながら、折れないように湾曲させていく。近くを持つとポキっといきやすい。遠くを持って、ぐわんと丸める。これも、私は手先が不器用なので簡単ではないのだが、たのしい。

その後、ススキを採るために手稲山に移動。採集した斜面は三菱重工の土地で、そこも志乃さんが確認をしてくれてある。

採集の基本、事前確認。

日本の場合、土地はどこでも誰かの土地だ。もちろん、そうでないからといって勝手にどんどん採っていいこともない。土地所有とそこに生えている植物の所有権は人同士のルールだけど、採集することは、人と植物、人と山とか森とかのルールにも関わってくる。市街地、人に開かれている場所の雑草を少しいただくぶんにはルール侵害にはならないと思うのだけど。このあたり、これから植物の採集をもっとできるようになりたいので(主に食用)、アイヌの文化とか、知っていきたい。

ススキは、今の時期なので緑色をしている。あの、秋の銀色の穂を光らせているもの、そうでなくても穂先を広げているもの、ベージュに枯れている以外のススキを、ちゃんとみたことがなかった、と思った。まったく初見で、あたらしい植物を知りました、というのではなくて、ああよくみてた気がするけどススキだったのか、という。

前に酒蔵のご主人が、「イネ科の植物にはガラス質が入っている」と言っていた。そのガラス質が、茎をすっとまっすぐに伸ばすのだと。これがプラント・オパールの効果、と思いながら、穂先をみずとも茎だけみれば明らかにしっかり、すっと伸びているのがススキ、と身体を低くしてできるだけ根元から、鋏で刈りとっていく。長袖を着ているのだが、全身の肌がチクチクする。何が原因のチクチクかわからないが、こんな道路沿いの草むらであっても、自然て厳しいなあと思う。この日は夜まで、肌が過敏になっている感じがあった。

四人で作業したので、すぐに車の荷台一杯分のススキが採れた。ススキを使うのは、イネ科の植物についている枯草菌を葛の発酵に使うためで、目には見えないけれども、菌がたくさんいるのだなと知る。

工房に戻って、葛をゆでる。乾燥が良くないとのことで、他の作業をする間もずっと水につけておく。

ゆでるのは、味噌を作る時に大豆を茹でるのと同じで、発酵しやすくさせるのだろう。熱いままだと良くないので、茹でたらまた水につけてさます。あっついとそれはそれで菌がやられてしまう。

ムロは、少し掘った土の上にススキを敷きつめてつくる。この後、茹でた葛を丸めたまま立てて並べて、全体をススキで厚く覆って、さらにビニールで密封して、その上にビニールシートをかける。ススキが枯れる時に発生する熱が発酵を助ける。ビニールをかけるのは、発酵菌にとってのベストな環境を志乃さんが試行錯誤した、札幌の気候に合わせた方法だという。指事された静岡の大井川葛布では、土も掘らないし、密封もしないらしい。温度、湿度が違うから、同じ植物でも同じ方法ではできないのが面白い。

作業はここでおしまい。次は5日後に、発酵のすすんだ葛を川で洗う。

今は身体で知るまえに情報として頭で知るから、発酵に気づいた昔の人すごい、と思うけれど、情報伝達手段のなかった昔から世界中で同時多発的に発酵の作用が利用されてきたことを思うと、人間には身体の経験から法則を学んで、それを有用な形に利用する力がデフォルトで備わっているんだと思う。私たちにもそういう能力はあって、今はあまり使わないから衰えていても、もしテクノロジーが奪われたら、そういう力が前に出てくるんだろう。その延長にはやっぱり、テクノロジーがあるのか、というと、必ずしもそうではないように思う。

当面、人の社会は狩猟採集に戻ることも自給自足に戻ることもなさそうだが、人には身体で学ぶ力、気づく力がある、と知るのにも、こういった技の伝承は重要だと思う。それは人の能力のルーツを知るきっかけになる。そして人間の在り方の多様性を支えている。それを知ることで、今を生きる人もたくましく、柔軟になれる。

 

2017.7.3