タクシー運転手が迷った日

 

旅先での移動には、道を間違えたり事件に巻き込まれたりせず辿り着けるかどうか、という緊張がつきまとう。時間のリミットがあればなおさらだ。この日は午後に、バラガン建築の中で一番交通の便が悪いサンクリストバルの厩の見学を予約していた。ここだけはメキシコシティではない、隣のメキシコ州にある。地下鉄やメトロバスでは行けないので、ホテル専属のタクシーをお願いした。3600円で往復してくれるという。片道1時間以上かかる場所だから、高くない。印刷してあった地図を渡して予約の時間を伝え、出発時間を逆算する。地図を渡すと、タクシー運転手のおじさんはどこかへ消えて、20分ほどしてやっと戻ってきた。道を聞きに行ったのだという。そんなに難しい場所なのだろうか。一抹の不安がよぎる。

車は乗り心地の良いセダンで、運転も丁寧で、安心して乗っていられた。価格は割高だけど、1時間座席にしがみついて乗るよりずっと良い。一昨日のデッドヒートは絶対じゃないんだなぁと痛感しながら、窓の外を見ていた。

金融関係だろうか、いくつかの大きなビル群を抜けて、車は郊外へ向かって行く。道沿いにはチェーン店がひしめいて、ときおりTOYOTAやNISSANの代理店がある。大型のショッピングモール、ハンバーガーやコーヒーのチェーン店、板金塗装の工場。山の斜面の家が存在感を増していって、景色が面白くなる。家の景色がいったん途切れて、広大な大地の中に孤城のような工場が現れた。工業地帯というにはまばらで、全体のまとまりはない。ただなにか工業が営まれている場所という感じ。

私達は毎日の移動でGPSを利用していた。GPSは地球と自分の間に壁を作るから使わないとある冒険家が言っていたけど、私達の旅の目的には觝触しないので使う。この日も、誘拐の回避も考えて画面をチェックしていたのだけれど、少し前から明らかに違う山の筋を通っている。夫に伝えると、彼もアプリが示す道と違うことはわかっているが、違う道順があるのだろう、この人を信頼しようと言う。とはいえそろそろ曲がらないと引き返せない所に来ている。

「道を間違えてない?」

運転手に言うと、彼は急に右折して山を降り始めた。道の途中に、斜面を利用して建っているリゾートホテルがあった。駐車場に入って、彼はホテルの管理人に道を訪ねた。管理人がサンクリストバルの厩を知っているとは思えないが、地区の名前で確認しているようだ。少し話して、また急な斜面を下って行く。地図で見ていた道順は単純だったから、来た通りに引き返して曲がるべき交差点で曲がれば良いだけと思ったが、旅行者ならではの遠慮が出て、黙っていた。敷地内には庭木の手入れをしている人、ゴミを掃いている掃除の人がいる。運転手はまた車を停めて、掃除の人に道を聞いた。これは、全然分かっていないのでは。というか、聞く相手にセンスがない。このタクシーの人、知らない道を走るセンスがない。もう少し先まで走って個人商店主とか、土地と関係ありそうな人に聞けばいいのに、二人目に声をかけてるということは一人目のおじさんが要領を得なかったということで、そこでなんでまた同じ敷地内で、こんな乾燥した斜面に突然現れた突飛な施設で、道を尋ねるのか。これ以上間違えていたら間に合わない。ここはもうGPSを頼ろう。私達は衛星が指し示す位置情報を優先することにした。一旦宇宙を経由して、目的地を目指すのだ。

「僕たちが道案内をするよ」

車を停めてもらって、夫が携帯を片手に助手席へ移動した。

「ターンレフト、エンドターンライト、ゴーストレイト、ターンレフト」

衛星の矢印に合わせて走るほど、道が細く、細かく、上りの斜面が急になっていく。ターンしすぎてないか。走行距離に対して明らかに曲がりすぎているというか、車で通るべきではない道を無理して走っている感がある。どうやら斜面沿いの、低所得者層の住宅地に紛れ込んできているようだった。この中にバラガン建築があるとは思えないけれど、山越えをしているということか。

道幅が狭くてスピードが出せないから、通りの商店の店の中までよく見える。スナック菓子、日用品、アイスクリーム。強い日差しに青や黄色の壁が賑やかだ。天井に四角いガーラントが所狭しと下がっている。銀色のアルミビニールでできた立体的な星形のかざり、ピンクや赤の飾り紐で軒先がいっぱいになっている。一つ角を曲がるにも家との距離がぎりぎりで、気づくと手を強く握りしめていた。

「ターンライト、エンドライト、エンド・・・」

どれだけ曲がるのか。行き止まりにならないか。不安になりながら、車窓から見える街の空気は意外なほど明るかった。小さな子供達がお母さんと連れ立って斜面を下ってきて、車を見て子供の手を繋がせた。子供達はきゃあきゃあ笑いながら、かろやかに駆けて行く。家族連れで歩く人が多くて、活気がある。街に開放感がある。この場所が、中所得者層の住む場所なのか、低所得者層のそれなのか、相場と程度がわからないけれど、街の雰囲気はメキシコシティのどこよりも良い感じがした。人と街のスケールが調和していて、建物は開け放たれて風通しが良い。人の気配と明るさに満ちた午後の時間が流れている。

斜面を上りきって、尾根の道に出た。前から車が来る。この先に道が続いていることがわかって安心する。と同時にすれ違えず、私達の車は20mほどバックした。後続車がいないことを確認して、また車は進む。

「ターンレフトッ・・・

おーーーすごいすごい、写真撮って、写真写真」

曲がると反対側の斜面に出て、視界が一気に開けた。下り斜面沿いに密集した住宅と、谷の先にある隣の山、その斜面の家々。私達夫婦は高揚していた。きゃーとかわーとか言った。写真は言われなくても撮るという気分だったけど、真っ直ぐに下っていくのだからフロントガラスからの景色の方が断然良いはずで、後部座席からはあまり良い物が撮れなかった。目的地にはまだ遠く、指示して来た道の悪さにまた遠慮が出て、停めてくださいとは言えなかった。それに車を停めてしまったら、来た道を歩いて戻って、いくらでも探検したくなる気持ちが止まらなくなると思った。それくらい、いま通ってきた場所には魅力があった。都心でそう思ったところはなかったのに。車はそのまま底まで下って、大きな幹線道路へ合流した。やはり山を超えたのだ。幹線道路はメキシコシティまで簡単に繫がっていそうな気配で、間違わなければこの道で来たのだと思うと、迷った運転手に感謝した。

サンクリストバルの厩は、これまで見てきた住宅からまた一段スケールの大きい場所だ。おそらく馬にのった状態で利用するのが最適な場だろう。中央に馬が水を飲むための大きな浅いプールがあって、プールの奥にはブーゲンビレアの巨木が生えていて、左側には空間を二つに分けるブーゲンビレア色のアーチが建っている。私はこの場所に関しては、各々の建物の関係と、アーチの意味や効果がいまいち飲み込めなくて、のどかで良いという以上の感想がなかなか持てなかった。それはここがあまりにも広かったからで、人間の身体だけではやっぱり分からない、馬のための場所だと思った。夫は使い方がわかればもっと響くと言った。これが人間のための場所だったら、足下は砂ではなく芝生で寝転べたり、プールも深くて泳げたりするのだろう。やっぱり馬に乗ってこの場所を一周して、馬に水を飲ませたいと思った。

サンクリストバルの厩の後、近くのヘベデロ噴水へ行った。噴水は、やはり壁を左右交互に立てて、奥の気配を感じさせて空間の連続性を持たせながら、途中まで全容はみせない演出がバラガンだった。驚いたのは、この区画はどの方角にも低所得者層の住宅が広がる山が見えたことだった。

この地区の住宅は区画ごとに管理人のいるゲートがあって、チェックを受けないと中に入れない高級住宅街だ。家の敷地はどこも大きく、庭木が刈り込まれている。駐車場には高級車が並んでいる。斜面の家々と近接しているからゲートが必要なのか、関係なくただそういうことなのか、わざとお互いに意識しあうように区画づけしているのか、どこまで意識的なものなのかわからない。ただ、入り口で身分証明が必要な高級エリアと、斜面に所狭しと家が並ぶエリアが互いを見下ろし、見上げあうという位置関係にある。明らかに社会的階層の違う住宅街がお互いに全部見通せる位置関係で近接する。そして低地が上流なのだ。低所得者に見下されて、高い所を囲まれている。お互いどういう気持ちで暮らしているんだろう。何も考えないのか。意識するとしたらどう意識するのか。

帰り道は難しくなかったはずだった。来た道を戻れば良いのだ。その道はメキシコシティに繫がっている。しかし運転手はまた迷って、往路とは違う山越えをした。今度は岩場と草原が続く山の道だった。ススキみたいな色の草が強風に煽られている。トンネルを抜けるとダムがあって、ダムの湖畔にも家が建っていた。いったいあれはどこだったんだろう。素晴らしい景色をみせてもらった。夫が前に使っていた、iphoneの地図や最短距離の高速ではない、回りくどくて時間のかかる、けれども景色は一番、という道を示したカーナビのことを思い出した。