土地の神様

 

アステカの人々にとって、神話を相対化する視点はなかった。完全に宗教的に生きていたから、スペインの侵略者達と対峙したときも、それが誰なのか、アステカの人は神話の中で彼らの存在を理解したらしい。そして彼らを、神様の化身、もしくはその使いと思ったのだという(神話の中の言い伝えとの符号は、ある程度はスペイン側のねつ造もあるとか)。アステカの王様モンテスーマ二世は、新たに現れた神<実際は侵略者>と既にいる神々<アステカの神々>の衝突を恐れながら、新しい神が怒ることを恐れた。それは世界の破滅に繫がる。

アステカの人々はけして未開の部族ではなかった。スペイン側兵士ベルナール・ディアスの記録『メキシコ征服記』には、アステカの都の美しさにおののいたことが書かれている。湖の上に築かれた都市。かずかずの神殿と建物。目を見張るほど姿格好の立派な首長たち。カヌーで入っていけるようになっている美しい庭。そうしたものについて、ヨーロッパの他のどの都よりも美しい、夢のようだった、これほどの土地は世界中探してもこれまでどこにも見つかった試しはない、と賛辞の言葉が興奮気味に重ねられる。

鉄器こそなかったとはいえ、アステカは軍事によって三百以上もの属国を隷属させている帝国だった。一方のコンキスタドールたちの数はずっと少なかったから、けして軍備が劣っていたわけでもなかった。ただ、世界認識が違った。アステカの人々のそれはとても複雑で入り組んでいた。侵略者の存在を神話のなかでしか捉えることができず、「侵略者」として攻撃することが遅れた。他の神々のために訪れた神を討つと決めた後でも、あくまでも致命傷を与えず、捕虜として捉え、捕虜を生贄として神々に捧げることが彼らの戦闘だった。目の前に敵がいても、そこで勝つか負けるかじゃなくて、一度神様を介さないといけない。それを怠ることができない。

一方侵略者の世界認識はとてもシンプルだ。この美しい場所を自分の土地にしたい。この地の野蛮な宗教を排除して、キリスト教を布教しなければならない。キリスト教には他よりもこちらのほうが優れている、という外側の視点がある。キリスト教のほうが優れているのだから、ここを自分たちの土地として、キリスト教に改宗させることは善である。個人の欲望を宗教が邪魔しない。

こうした両者が戦った結果、アステカの都は征服されてしまった。もしもアステカの人々の神話を介した世界認識のままでも、侵略者をそのまま侵略者とみなし、撃退する考えが導かれたならば、違う結果があったかもしれない。しかしそうはならなかった。アステカの神話では、世界は崩壊することになっていた。自分たちが他国を政略して帝国を築いたからには、終わりがくることを予感していたとも言われる。そうして神話の通り、終わりをもたらす者が訪れた。なんて人間に厳しい神話だろう。征服されてしまった要因は他にもたくさんあり、武器の性能の違いや馬の有無、一番はコンキスタドールが持ち込んだ病原菌に抗体がなかったからとも言われるが、意識が違えば違う結果があったのではないかと思える。

戦う人間を弱くする神様。強くする神様。神様にそういう違いがある。それは人間の意志の力を弱める神様と、強める神様、ともいえるかもしれない。謙虚であることを求める神様と、傲慢にさせる神様、でもあるかもしれない。アステカは負けたけれど、それはほんとうに負けなんだろうか。

どこかヘンテコで錯綜しているように感じられるアステカの神様、メソアメリカの神様である。アミニズム対一神教の対比にはおさめきれない不可解さがあって、そのわからなさが気になる。まだ気になりつづけている。

もう一つメキシコで自分の無知を恥じて大きく驚いたのは、スペインの政略によるメソアメリカ文明と現代メキシコとの断絶、その後の歴史の複雑さだった。全然、ソンブレロをかぶった陽気なおじさんの国じゃない。私は博物館の展示で初めて、アステカの都、ティノチトランが水上都市であり、現在のメキシコシティはその水上都市を埋め立てた上にそのまま覆い被さるようにある都市だということを知った。メキシコがスペインの植民地だったこと、メキシコ人の多くはスペイン人とインディオの混血であることは知っていたけれど、途中までスペインから独立したメキシコとは何なのか、誰なのか、分かっていなかった。今のメキシコはその延長にあるのだから、ということは独立したのはインディオじゃない。これまで数日歩いてきた都市の中心にいるのはインディオじゃない。誰なんだと明確な疑問が湧いて、それからやっと、メスチソなのだと気づいた。

簡単な概要としては、1821年に独立を達成したのは本土のスペイン人に反感を持っていた新大陸生まれのスペイン人であるクリオーリョで、それは白人支配の体制をひきずった社会体制としては植民地時代とさほど変わりがないものだったが、1910年のメキシコ革命によってメスチソ的なものを中心とする民族主義教育や壁画によるプロパガンダなどのナショナリズムが起こり、現代に至るのだという。

メスチソとは白人とインディオの混血のことで、地理の授業で習ったことを覚えている。メスチソ、とテストの答案用紙に書いたことがある。スペインからの移住者はほとんどが男性だったから、インディオの女性と子供を作った。そうして混血が進んだ。しかし自分の中に侵略者の血が流れているというのは、なんて事態だろう。アイデンティティを奪い、複雑にした相手が自分の大切な肉親でもあるという、この複雑さが国家的な事態だなんて。

しかしところで、1912年に文部大臣に就任し民族主義教育をすすめたバスコンセロスは、『宇宙人種』という論文を記し混血の価値と可能性を唱えた。宇宙人種。ぶっ飛んでる。アステカ帝国はスペインの帝国に一度は吸収されたけど、メキシコの土地に脈打つメキシコ然としたものは誰がどうそこに住まわっても立ち現れてくるのではないか。消えようがないのではないか。

ものは見る人の見たいように見える。考えようによっては、メキシコの土地にある力が、新たな可能性を持つ人間として歴史の新しい場での混血を作り出すためにスペインを引き寄せて、統治者をすげ替えさせたのではないか、メキシコの神様はいまだそこにいる、という気すらしてくる。ケツァルトルコルでもない、ウィチトリポリでもない、人が考えた神様ではない、名前のない超越的な何かがずっとそこにいる。なぜスペイン人が来たのか。なぜ彼らに人種差別の意識が薄かったのか。なぜ混血が進んだのか。イギリス人は人種差別意識が強かったため、アメリカでは混血はさほどおこらなかったという。その対比を考えるとそこにも不思議がある。

グローバリゼーションで人も物も行き来が容易になって、世界はどんどん狭くなるという。文明は明らかに統合に向かう流れにあるという。でもその場所にはその場所にしかない環境があって、人の営みの中で日々歴史が連なって行く。全てが同じになることなんて絶対に無理だ。他の場所からきたものと、その場所に元からあるものはずっと混ざり続けて、その場所にしかないものを生み出し続ける。